やっときみに好きだと言えた(2)

 蝉が大きく、大きく、鳴いている。雌の蝉に知らせようとしているのだ。自分がここにいることを。二週間もない命の中で、鳴いている。こんなに激しく鳴いているのに、雌は来ないのだろうか。だから、ずっと鳴き続けているのか。

 雌を求める蝉時雨の鳴き声で目を覚まし、身体を起こす。

 うなじや背中は薄らと汗をかいており、障子を開けることにした。私の寝ている部屋は縁側の隣にある。そこからは本丸も見えた。ここは離れである。朝は今まで静かだったが、夏の訪れと共に賑やかになってきた。

 ほうっと息を吐く。そして、縁側の隅にいる白い装束を纏った男に目が留まる。彼は私を見ると、からりと晴れた空に似合う笑みを浮かべた。

「珍しいな、きみがこの障子を開けるなんて」
「鶴丸……」
「おはよう。いくら一人だからとはいえ、少し無防備すぎるんじゃないか?」

 鶴丸の目線を辿ると、胸元に行き着いた。浴衣がはだけて谷間が見えている。悲鳴を押し殺して、ひとまず布団を胸に当てた。

「それより、どうしてここにいるの? もしかして、今までずっとそこにいたりしないよね」
「いるに決まっているだろう。きみは主だ。何かあったらどうする」

 やれやれと彼は溜息を吐く。

「それでも……ううん、そうだよね。ごめん」

 当然のことなのに、気づきもしなかった。とはいえ、私は立派な主でもなく、そうまでして守るに値する存在ではない。いつも戦では役に立たず、作戦を失敗させて傷も負わせてしまっている。そんな私を、守る必要などないのに。

「とにかく早く着替えて、朝餉を食べよう。もし一人で着替えられないと言うなら手伝うが」
「いつも一人でしてるからできるってば!」

 暑かったが、障子を閉めた。箪笥から着替えを取り出して、すぐに涼しい服に着替える。草履を履いて、玄関から出て縁側の方を見てみるが鶴丸はいない。

 しばらく探してみても、彼はどこにもいないので、もしかしたらと思い、本丸に向かう。

 すると、居間には既に鶴丸がおり、何事もなかったかの様に「おはよう」と挨拶をしてきた。何だか、今日初めて会ったみたいな反応に呆れる。一言文句を言いたい所だけれど、私と彼はそんなことが言えるほど親しくはない。

 朝餉を食べて、政府に依頼された歴史に行ってもらう為の用意をする。

 依頼される敵の討伐は、日に日に強い相手となり、今はギリギリ勝てるがそろそろ危ないと思う。まだ本丸内がまとまってもいないのに、何度も危険が多すぎる任務を受けるのは気が引けた。一応、政府には止めて欲しいと言っているのに、また新しい戦地に行くことなっている。

 愚痴を零しても仕方ない。私の力不足でもある。それでも、私には荷が重すぎるのだ。

 彼らが戦いから帰ってくると、必ず誰かが重傷を負っている。当たり前の様に、彼らは傷ついて傷をなおすと普段通りに動き始める。次の日には戦場に行こうとする彼らが怖い。人間の身体を与えたのに、本質的な部分はどこか人形のようだった。機械とも言えるのだろうか。刀剣男士は従順で、優しく、私にかけてくれる言葉は本物なのだろうかと疑いたくなる。

 居心地が悪いのは当然だった。私は彼らを信用出来ていない。――ただ、一人だけ。鶴丸だけは他の刀剣男士と違って理解のできない行動をした。突拍子もない、規則性もないその行動は本物の人間のようだった。だから、たまに気を許してしまう。

 今朝だって、私は驚いた。

 離れで寝ることを決めた時、皆に結界はきちんと張っているので、見張りはいらないと言っている。それなのに、鶴丸だけがそれを破った。何故だろう。

 考えても答えの出ないことをいつまでも考えていると、戦に出た部隊が戻ってくる気配がした。私はこの瞬間が嫌いだ。必ず怪我をしている刀剣男士を見なくてはならない。無事を確認したい気持ちももちろんある。けれど、深い傷を負った彼らを直視するのは辛かった。私より苦しい筈の刀剣男士が、私を落ち着かせる為に笑って「ただいま」と言うのだ。私はそれに耐えられるほどの強さを持っていなかった。

 ほとんど意識のない状態で、仲間に引きずられて帰ってきたのは鶴丸だった。真っ白だった装束は真っ赤に染まり、触れるのを躊躇してしまう。死んだようにだらんと垂れ下がった腕。苦しげに呻く声で、まだ生きているのだと知ることができた。

 この状態の彼をなおすことは、気が遠くなるほどの大仕事だった。

 髪を一つに結い、着物の袖が邪魔にならないように紐で縛る。

 鶴丸の装束を上半身だけ脱がせて、傷を確認した。白く細いが、しっかりとついた筋肉。女性にも男性にも見える中性的な顔の下には、男性らしい肉体が存在する。普通なら、恥じらう気持ちを持ってしまうが、そんな気など失せるほどに鶴丸は重傷だった。脇腹は槍に突かれたらしい傷がある。そしてこれが一番酷いのだが、肩から腰にかけてばっさりと斬られている。傷はかなり深く、なんとか首はかわしているものの血が止まっていなかった。

 手早く消毒をして、傷の中を確認する。作り物の身体ではあるが、ほとんどは人間と同じである。違うのはこの身体が『何から出来たか』なのかだ。

 普通の人間ならば人間と性交し、受精し、人間の身体の中から人が産まれる。

 しかし、刀剣男士の身体はそうではない。審神者が物に宿る魂を人間の身体のカタチにするのだ。

 だから、刀剣男士が身体を傷つけられることは――人間で言う精神を傷つけられるのと同じ意味を持つ。そして、傷がなくなるというのは、精神的な傷も全てなくなるということで……だから、彼らが人形に見えてしまうのだろうか。

 余計なことを考えてはいけない。

 今は、鶴丸を元の状態に戻さなければならない。

 身体の傷は殺菌し終えたので、後は同期している鶴丸の刀を手入れするだけだ。

 目釘抜きで目釘を抜いて柄を外し、刀を鞘から抜く。はばきと呼ばれる刀身の手元の部分に嵌める金具も外せば、後は私の霊力を込めて刀身を綺麗にしていくだけだ。拭い紙を手にする頃には、額に汗が浮かんでいる。それはもう、歴史修正主義者を斬った刀である。今、刀身に付着している血が敵の物だと思うと、緊張で手が震えるものだ。この生々しい戦いの痕を、私は嫌でも目にしなければいけない。

 私は手入れが、嫌いだった。




「……生きているのが不思議なくらいだろう」

 掠れた声で鶴丸が言った。見ると、目を薄らと開き、瞳を私の方に向けている。傷は塞がっていた。傷痕も見当たらないほどに、綺麗に戻っている。息が切れているのは、まだ回復した身体になれないからだろう。

「嫌だった?」
「この身体になったことを後悔してはいないさ。きみこそ、どうなんだ」
「私は、別に」

 刀を鞘に収める。手入れは無事に終わり、私は息を吐く。

「あまり無理をしないでくれよ。……そうだ! おまじないをしてやろうか。耳を貸してくれ」

 疲れた顔で、鶴丸は明るい声を出す。彼の提案を拒否するのは気が引けて、素直に耳を近づける。すると、耳の端が引っ張られた。

「いっ……」
「悪い、吸い過ぎたか」

 悪びれもせず、鶴丸は謝った。

「吸っ……えっ? 何したの!?」
「きみの暗い気持ちを少し吸ったんだ。さ、手入れも終わったことだ。俺は内番があるから、そっちに行くとしよう。ありがとう、主」

 彼はとても満足そうに笑うと、腰を上げて血の付いた着物の衿を正すと部屋を出て行った。

 私は立つことも出来ないまま、真っ赤になってしまった顔を覆う。

「ああ、もう」

 私、本当に主だと思ってもらえているのだろうか。



 気分を落ち着かせてから、書類整理と政府への定期報告をして、夕飯の買い出しもする。身体を休めることができるのは、ご飯を食べ終わってから離れに戻った時だけだ。

 離れには風呂場が備わっているので、私はそこでお湯に浸かる。全ての本丸にこの様な建物はないらしく、たまたま私が着任した本丸に離れがあっただけだった。

 女一人生活する分には全く支障のない建物で、他にも簡易な台所もある。私の前にいた審神者も離れを使っていたのだろう。布団は既にあったし、鍋やフライパン、調味料だってあった。果たして、以前この本丸を任されていた審神者はどうなってしまったのだろう。どういう理由で、この離れで暮らしていたのだろう。どんな気持ちで毎日を過ごしていたのだろう。

 鬱々とした気持ちがぷくぷくと浮き出ては水面から顔を出し、消えていく。鬱陶しいくらいにネガティブな思考に陥ってしまうのは、疲れがなかなか取れないせいでもある。

 政府からの命令で仲間を増やすように言われ、できる限り鍛刀をしてきた。そうすれば戦いが楽になると言われたからだ。

 結果、仲間が増えれば増えるほど楽になるということはなく、政府がより強い敵を倒すように命令してくるのだから変わらなかった。

 いや、それどころか増えていく刀剣男士の指揮をとるのは審神者一人だけである。当然、私がやらなくてはならないことは増えていった。

 今思えば、少数精鋭の本丸の方が上手くやっていけたのではないかと思う。

 お湯の心地よさに慣れた所で、風呂場から出る。浴衣を着て、縁側の方へ行くと庭では蛍の光で少し幻想的な空間になっていた。夜空には満天の星が瞬いており、一人で見るには贅沢な光景だった。現代では自然がほとんどなく、機械化が進んでいるので私にとっては貴重である。

 ふと、脳裏に浮かんだ刀剣男士の名前が口から零れ落ちた。

「鶴丸」

 もしかすると、今もどこかで見張りをしてくれているのではないか。ならば、一緒に見てもいいのではないかと思った。

 しかし、思いつきで呼んだ名は、夜風にさらわれて消えていく。答える声はない。いたとしても、出てきてくれるとは限らないだろう。

 何より私は今日、鶴丸に怪我をさせてしまった訳だし。

「はぁ……」

 肩の力を抜いて、気持ちを入れ替える。

 明日もまた、戦場が待っているのだ。いつまでも沈んでいてはいけない。

 するり、と首の横を後ろから誰かの両腕がすり抜けた。

「呼んだかい?」

 頭上から聞こえる声に、驚いて悲鳴が出そうになるのを呑み込んだ。

「やっぱり、いたの」
「きみが安心できるように、バレないようにしてきたんだがなぁ」
「……ごめんなさい」
「どうしてきみが謝る」
「私が離れで暮らしているから鶴丸は本丸で寝てないのよね」
「あんまり気にしないでくれ。きみ、主になってからというもの、一度もわがままを言ったことがなかったじゃないか。これくらいさせてくれ」
「主らしいことなんて、できていないのに?」
「きみは充分に俺達の主だ。今日も、きみの策のおかげで俺は助かったんだ」
「そんなことない。私は全然上手くできてない。誰も怪我をさせたくないの」
「理想が高すぎるんじゃないかい? 血が一滴も流れない戦なんて刀剣男士にはできないさ。何かを傷つけるなら、俺達も同じように傷つくものだろう? だからきみは充分出来ている。その証拠に、今まで誰も折れずにちゃんと帰って来てるじゃないか」
「私は上手く出来ているのかな」

 いつも疑問に思う。私は何かを間違えているのではないか。もっと上手く戦う方法があるのではないか。

 でなければ、何故私はいつも政府からもっと戦果を上げろと言われるのだろうか。

 自身がない。彼らをモノだと割り切ることができない私がしていることは、本当に正しいのだろうか。

「もしきみが思う通りの成果を出せなかったのなら、それは俺に力がなかったからだ。敵が潜んでいることにも気づかずに刺されたんだ。情けないよな」

 背中に鶴丸の身体が触れる。だらりと下がった両腕。溢れた息はどこか悩ましげで、彼も私と同様に落ち込んでいた。私を責めるのではなく、自分を責めている。鶴丸も人のせいになんてできない刀剣男士なのだと気づいてしまうと、胸が苦しくなった。

「明日からは、本丸に戻ろうと思う」
「どうした。無理をしなくてもいいんだぜ?」
「いいの。息抜きはもう充分したから」
「きみがそう言うなら従おう。でもな、辛くなったら言ってくれよ」
「うん」

 私の返事に満足した鶴丸の身体が離れていく。私は振り返らずに、蛍を眺めた。ゆらゆらと揺れる、目の表面に浮き出たしずくを拭いながら、乱れ始めた呼吸を整える。けれどもそれは一向に上手くいかず、涙は止まらないし、泣き声さえ出そうになった。

 私には、誰にも言っていない秘密がある。一週間先の未来を見ることができるのだ。映像は断片で、見る時は突然訪れ、そして見える未来はいつも最悪の瞬間。皆が刺されて死んでいく未来ばかり見えた。その度に私は断片的な未来を何度も思い出して泣きながら、そうならない策を作る。

 けれど、いつも刀剣男士達は死にかけた。知っているのに、どうして私は上手く回避させることができないのだろう。

 本当は未来なんて見たくない。悪い未来が見えると、その時が来るまで私は囚人の様な気持ちで毎日を過ごさなければならない。その未来を変えなければならない使命感のみで、頭や身体を奴隷のように全力で使っていった。

 でもそんな毎日のおしまいがやってくる。


 ――明日は、本丸が襲撃される日だ。


 なのに私は一体どうして襲撃されるのかも分からなければ、防ぐ方法も分からない。

 そしてその結果、私は明日、死ぬらしい。

 お腹をぐさりと刺されて死んでしまう。とうとう、私の番が来てしまったのだ。私なりに、回避しようと試してみたけれど、本丸を離れると決めても、現代に戻ると決めても結末は変わらなかった。これはもう、腹を括るしかない。

 打ち寄せる波を何度も防いでいたせいで、大きくて防げない波が来てしまったのだろう。

 最後の不幸が私なのだとすれば、それはきっと、幸福な方だ。そう思わないと、やっていけない。普通の人間みたいな顔をしていられない。

 明日、どうするかは決めている。どうするのが一番いいのか、私は知っていた。

 ――だから、今だけは。

 そんな甘い考えを抱いて、腰を上げる。もう一度だけ、鶴丸に会いたい。審神者としてではなく、ただの女として彼に伝えたかった。

 足を進めると頭にツンと刺激が走る。

 蛍の光と月明かりに照らされた私と鶴丸。その口から出る謝罪の声。

「……あぁ」

 一秒にも満たない時間。

 たったそれだけで、私は密かに好いていた鶴丸にフラれる未来が見えて、足がすくむ。

 もう枯れたと思った涙が溢れていった。

 もう、いや。

 こんな私(運命)、さっさと死んでしまえ。