5 ヒトリぼっち
 鶴丸先生から楽譜を貰って練習をするようになって、自分でも上達したと分かるくらいに弾けるようになった。目標に向かっていると、家でも練習も集中できるからだろう。

 そして、曲名は結局『月明かりの海』のまま。なんとなく、夜の海を思わせるような儚さだったからってだけの理由なのに。からかっているつもりは全くないと分かっているけれど、鶴丸先生はさらりと曲名を口にする。その度に、私は羞恥で目が潤んでしまう。

 結局、私は鶴丸先生への恋心を捨てずにいた。絶対に表には出さないように強く縛って、鶴丸先生とピアノを弾く時だけ追いかける。鶴丸先生が私を振り返らないことの祈りながら。

 別に私は鶴丸先生とどうこうなりたい訳ではない。鶴丸先生には乱さんがいるのだから。だって、二人は異性の友達というにはあまりに親密だった。鶴丸先生が風邪をひいたことを知って、看病しに来たりしているのなら、わざわざ私が入る隙もない。入れるとも、思えない。

 家を出ると、空は曇天だった。今にも雨が降り出しそうで、でも傘を持つ気にはなれなかった。降ったら降ったで、当たって帰ればいい。そう思えるくらい、その時の私はちょっとだけ自棄になっていた。

 鶴丸先生が住む洋館に近づくと、珍しくピアノの音が聞こえた。私が弾きたいと言った曲だった。どうして先生はあの曲を、悲しそうに弾くのだろう。私には、あの曲は悲しくて切なくて儚いだけの曲ではないように思えていた。だから私は自分の思った通りに曲を弾きたくなる。そんなの、生意気だと思われてしまうかもしれないけど。

 ピアノのある部屋まであっという間だった。鶴丸先生のピアノの音はまだ続いている。このままずっと聴いていたくなるけれど、そういう訳にもいかない。

 部屋に入ると、やっぱりピアノの音はぴたりと止んだ。蜜色の瞳がぱちりと私を捉えた。それだけで、ドキリと気持ちが疼いてしまうのは本当に厄介だ。

「こんにちは、鶴丸先生」
「こんにちは」

 最近、鶴丸先生は私と会うと僅かに笑んでくれるようになった。それもまた、私の気持ちが揺らぎそうになる原因で。この笑みに意味はないのに、意味を見出したくなる。騙されては駄目だ、というくらいに強く己を叱咤しないと、私は表面を偽ることさえできなくなってしまうような気がした。それくらい鶴丸先生というのは魅力的な男性で、強敵だった。

 それでも楽譜を前にすれば、私も鶴丸先生からピアノに視線を向けるので少しだけ楽になる。

 自分でできる範囲で練習した曲を鶴丸先生に聴いてもらった後で、引き方を教えてくれる。私はたまに、指摘された内容が家に帰るとよくわかっていないことに気付いてしまったり、一つ悪い癖を直したらまた違う悪い癖を発見してしまって鶴丸先生に教えられたりと、曲を最後まで弾けたとしても直す部分はたくさんあるから、何週間も弾き続けたりする。できることなら、早く上達して次の曲に行きたい気持ちもあるけれど。

 いつもいつも一時間のレッスンはすぐに終わってしまう。今日はこれで終わり、と鶴丸先生に言われて私は夢から醒めた気分になる。

 すぐに気持ちを入れ替えることができず、私はよく呆けてしまう。

「――なぁ、聞いているのかい?」

 鶴丸先生が心配そうに私の顔を覗きこんだ。

「は、はい。ちゃんと練習します」
「ならいいんだが……」

 鶴丸先生が突然、私の手を握った。驚いて振りほどけず、されるままになっていると手のひらをむにゅむにゅと触られる。先生の体温が指先から伝わって、私の手がじんわりとあたたかくなっていく。

「やっぱり手が冷たいな。最近は寒くなってきたからな。冷たいと指が動かし難いだろう」
「……次からは、手袋をしてきます」
「そうした方がいいな」

 するりと鶴丸先生の指が離れる。鶴丸先生にあたためられた手を冷やすように、ざぁざぁと雨音が聞こえ始めた。そして洋館のガラスがガタンガタンと鳴るほどの、強い風。突然の嵐に、窓の外を眺めることしかできなかった。

「雨が降ってきたな。どうする? 傘、あるか?」
「傘は持ってきてないです」

 降ったとしても、こんなに酷い雨風になるとは思わなかった。傘を持って行くのが面倒なほど気分が沈んでいたからといって、持ってこなかったのは失敗だった。……けれど、傘を持ってきていたとして、この暴風の中、傘をさして帰るのも難しい気もした。

「俺が車を持っていたら送ってやりたいんだがなぁ」
「わ、私、走って帰ります……!」

 濡れて帰る以外に選択肢はないと思った。

「それだと君が風邪をひいてしまうかもしれないだろう。何か急ぎの用でもあるなら止めないが、ないならここで夕飯でも食べないか。その内、止むだろう」
「でも……」

 言いかけて、私は口を閉じる。にっこりと笑う鶴丸先生を見ると、逆らう勇気がわかなかった。

「いいんですか」
「ちょうど、夕飯を作りすぎて困っていたんだ」
「それなら……」

 帰った方がいいと分かっているのに、私は誘いを断れず教室を出る。鶴丸先生を追っていると、心音がトクントクンと徐々に早くなっていく。

 教室以外で二人きりになるのは、私が風邪をひいた時以来だった。

 鶴丸先生は私を椅子に座らせると、後は温めるだけだからと言ってできた料理に再び火をつけた。その間、ご飯をよそいでてきぱきと食事用のテーブルに並べられて行った。何か手伝いたくても、鶴丸先生はさくさくと進めてしまって、私が手を出す隙もない。

 味噌汁、ご飯、焼き魚に、かぼちゃの煮つけや肉じゃがまであって、男性の一人暮らしとは……と頭を傾げたくなる。私よりもきちんとしたものを食べていた。

「もう食べていいぞ」

 鶴丸先生は私の向かいの席に座ると、両手を合わせて「いただきます」と言った。私も鶴丸先生と同じように両手を合わせた。

 肉じゃがのじゃがいもを一口食べると、ふわりと広がる味に驚いた。

「君の口にあうといいんだが」
「美味しいです! すごく!」

 思わず大きな声で返答してしまった私に、鶴丸先生は目を丸くした。そしてすぐに口元を緩める。

「そうか。それはよかった」
「はい……」

 真正面から微笑まれたことに、頬が赤くなりそうで私は下を向いた。けれど、鶴丸先生の料理を食べていると、その美味しさに夢中になっていく。味噌汁は私の好きな薄味で、ご飯はどうしてか米粒のひとつひとつが美味し、焼き魚は全然ぱさぱさしてなくて、かぼちゃの煮つけは甘くて柔らかい。肉じゃがも味がしみこんでいるし味付けも私の好みと一致していて……ご飯がすすまない訳がなかった。

 全部食べ終わり、私はお茶を一口飲んだ。

「ふぁ……」

 気持ちがいいくらいにお腹がいっぱいでつい、間の抜けた声が出た。

「落ち着いたかい?」

 鶴丸先生の声にハッとなり、顔をあげる。完全に先生の存在を忘れていた。

「すごく、美味しかったです……」
「ん、美味しそうに食べて貰えて俺も嬉しいぜ」

 鶴丸先生も食べ終えたようで、じっと私を見ていた。会話も何もなくて、いたたまれない気持ちになる。

「どうかしました……?」
「これからどうするかな、と思ってな」

 一瞬、先生が何を言っているのか分からなくなる。

「雨、止まないな」
「そうですね」

 むしろ、夕飯を食べる前よりも酷くなっているような気がする。もう日は落ちているので、辺りは完全に真っ暗になっていた。

「食器、私が洗います。やっぱり止まないみたいですし、走って帰りますよ」

 そうじゃないと、バスも出なくなってしまう。そうなったら、どうやって帰ればいいんだろう。

「泊まっていくか?」
「えっ」
「明日、何か急ぎの予定がないなら泊まっていくか? 部屋なら空いてる」
「そこまでして頂くわけには」
「前みたいに風邪をひかれるほうが、俺は心配だ」

 鶴丸先生に風邪で看病してもらったことを思い出し、上手く断る文句が思いつかない。看病された挙句、風邪をうつしてしまったのだからもう私はどうすればいいのだろう。

「明日、休みですし……風邪をひいても大丈夫です!」
「そんなこと言われて帰せるか。諦めて、泊まってくれ」
「あっうっ……は、はい……」

 私は渋々、首を縦に振るしかなかった。

 食器を洗うのは私、洗った食器を鶴丸先生が拭いた後、私は先にお風呂に入らせてもらうことになった。先生が使っているパジャマと、どういうわけか新品の下着まで渡されて。

「鶴丸先生、その……下着は……」
「違う、これは俺の友人が面白がって買ってきて俺に押し付けただけだ。俺が持ってても仕方ないから、君が使ってくれ。使ったら捨ててくれればいい」
「そうなんですか……」

 とはいえ、薄いピンクの下地にリボンとレースがふんだんに使われている上下の下着をもらってもいいのだろうか。素材もいいし、値の張る物だと思う。可愛いことに違いはないのだけれど。友人が面白がって買った、というのはどういう状況なのか上手く想像できない。

 シャワーだけでささっと済ませて、パジャマに着替える。ブラジャーは普段しないのだけれど、どこで鶴丸先生と遭遇するか分からないので一応着る……のだけれど、本当に、どうしてサイズがあうのだろう……。聞く勇気はない。

 男物のパジャマなので、やっぱり丈が長い。二回三回袖を折ってから、私は脱衣所を出た。

 鶴丸先生はどこだろう。

 教室の方でピアノの音が聞こえて、私はそちらに足を向けた。部屋に入ると、ぴたりと音が止む。

「鶴丸先生、あの、お風呂お先にありがとうございました」
「ん、あぁ……」
「先生?」
「髪は、かわかさないのか」

 胸まで伸びた自分の髪を見る。

「髪が長いと、ドライヤーですぐに乾かないので、ちょっと自然乾燥させてからかわかすんです」
「まだ全然拭けてないじゃないか。それだと風邪をひくだろう」

 鶴丸先生は私の首にかけているフェイスタオルを取ると、頭にかけた。ぐりぐりと頭を揉むように濡れた髪を拭いてくれた。長い髪が絡まない丁寧な手つきで、なんだかマッサージみたいだった。

「私、自分で拭けますよ!」
「君は頭が丸くて柔らかいなぁ」

 大きな手のひらが頭を包む。離れたいのに自分から離れる勇気はなく、最終的に私はされるがままで終わるのを待つことしかできなかった。

「君が寝る部屋はこの部屋の隣だ。寝るまですることがなかったら、ここのピアノを使って練習してもいい。好きにしてくれ……ともうこれでいいか。ドライヤーは隣の部屋に置いてあるから、ちゃんと使ってくれよ」

 こくり、と頷いて返事する。
 それでもなお、鶴丸先生は私をじっと見る。

「します! ちゃんとすぐにドライヤーで乾かします!」
「ん、それならいい。ちゃんと乾かすんだぜ?」

 鶴丸先生が部屋を出て、私は深く息を吐いた。緊張した。怖いわけではないのだけれど、出会った頃に比べて、ピアノのこと以外の話はしなくなったから今の状況に緊張してしまう。それは私から壁を作ったのだから、自業自得なのだけれど。

 先生に言われた通り、私は隣の部屋でドライヤーを使って髪を乾かし、もう一度ピアノが置かれた部屋に戻る。

 まだ寝るには早すぎるし、他にしたいこともなかった。グランドピアノで練習できる機会なんてそうそうないのだから、弾いた方がきっといい。

 楽譜を開いて、鶴丸先生の曲を弾く。家で弾く時とは違って指が動かしやすい。ついつい楽しくて、先生に言われた弾き方以外も試したくなる。

「もう少し柔らかくしてみよう」

 深く響くようにと言われていた部分を、音を包むように。悲しいだけじゃなくて、穏やかで優しい感じに聴こえればいいのに。だって、鶴丸先生のピアノはいつも孤独を感じてしまうから。

 弾きたいように弾いて、その後また先生に言われた通り弾こうと顔を上げると鶴丸先生が部屋にいた。夢中になって弾いていたせいか、全然気づかなかった。レッスンの時とは比べ物にならないくらい下手な弾き方をしていたと思う。焦って、頭の中が真っ白になっていく。

「す、すみません! 鶴丸先生がいたとは気付かなくて、さっきのはちょっと遊んでしまって……」

 ピアノを借りているのに遊んでいたなんて言ってどうするんだ、私は。混乱しすぎて、鶴丸先生の顔を見ることもできない。それに、鶴丸先生は何も言ってこない。怒っているのだろうか。だとすれば、私はこれからどんな顔をして鶴丸先生に会えばいいのか……。

「別に、いいんじゃないのか?」

 ぐるぐると思考をめぐらせていると、先生がぽつりと呟いた。恐る恐る顔を窺うと、怒ってはいないようで、けれど喜んでいるようにも見えなかった。無表情で、何を考えているのか読めない。

「怒っていたら、本当にすみません」
「怒ってないぜ。だからもう一回さっきの弾いてくれないか」
「えっええっ!?」

 鶴丸先生は私の隣の椅子に座り、じっと私を見る。

「なんとなく弾いてただけですよ?」
「いいから、な? 弾いてくれ」

 鶴丸先生はどうして弾いてほしいと言うのだろう。しかし、頼まれたら弾かない訳にもいかず私は弾くことにした。不意打ちを食らったような気分だったけれど、なんとかさっき弾いた調子で弾くことができた。けれど、鶴丸先生にとって何を意味するのか弾いた後でもさっぱり分からない。

「鶴丸先生どうかしたのですか?」

 弾き終わった後もなお、私を見つめる鶴丸先生に問うた。先生は呆けた顔をしていて、私の声が届いていたのか――いや、そもそも私の弾いたピアノの音が届いているのかも分からない。弾く前とほとんど同じ顔だった。

「鶴丸先生?」

 もう一度、先生を呼ぶと彼は目を見開いて「すまない」と謝った。

「まさかここまで好き勝手に弾かれるとは思わなかった」

 ひっ、と悲鳴が漏れ出そうだった。

「すみません! あの、いつもはこんな風には弾きませんから!」
「いやいいんだ、俺も昔は君みたいに弾いていた」

 鶴丸先生が薄く笑む。

「この曲は俺と祖母と一緒に作ったんだ。祖母は両親が共働きでいつも一人でいる俺を心配して、相手をしてくれた。料理や掃除の仕方を教えてくれたり、ピアノを教えてくれたんだ。あの頃は楽しかった。ピアノを弾くのが楽しくて、毎日練習していた。だが……」

 そこで、言葉が切れる。先生は虚ろな目をすると、立ち上がる。

「こんな昔話しても仕方ないな、君の練習の邪魔になるし俺は部屋に戻る」
「待って、ください」

 思わず、鶴丸先生の服の裾を掴んで、引き留めていた。

「聞かせてください」
「知っても、面白くないぜ?」
「面白くなくていいです。鶴丸先生のことだから知りたいんです」
「分かった。話すから、君はそういう恥ずかしいことを言わないでくれ」

 鶴丸先生は勘違いしそうになる、と小さく呟いて、再び椅子に座る。私は何が恥ずかしいのか分からないけれど、聞いてしまうと話が逸れてしまいそうなので聞かないことにした。

「毎日ピアノをしていた俺は、突然両親にコンクールに出ないかと言われたんだ。今までほとんど会話もしたことがなかったが、これをきっかけに話せるようになりたかった。コンクールは入賞して、そこから両親はどんどん俺にコンクールを受けさせた。家にピアノまで買ってもらって、それから祖母の家に行く機会は少なくなっていった。何かがおかしいと思ったんだ。でも子供だった俺はそれが言葉にできなくて、ずるずると両親の言われるまま、音大にまで行った」

 鶴丸先生の手は震えていた。苦しそうに眉を歪め、少し興奮したようで呼吸が乱れていた。その姿は、罪を告白するみたいで胸が痛い。

「――そして俺が二十歳を過ぎたころ、祖母が、亡くなった。それを知った俺は、すぐに祖母の家に行った。たくさん後悔した。祖母も俺と同じで一人だった。それなのに俺は音大に行ってからはほとんど祖母の家に行かなかった。こんな山奥で大きな家に一人でいたんだ。俺が行かなかったら、祖母はずっと一人なのに。両親はすぐに祖母の財産の話をし始めた。家やピアノを売ったらどれくらいの値になるのかとかな。お金の話ばかりし始めた。その間、祖母の荷物を整理していたら、俺の学費を祖母が支払っていたことが分かったんだ。それと、祖母の遺書も見つかった。内容を簡単に言うと、全財産を俺に譲ると書かれていた。それから俺は留学の話も断って、大学は中退したかったが祖母に申し訳ないから一応卒業はした。今では両親とは更に不仲だ。コンクールに行かせたのは自分たちの見栄のためだし、大学は俺が行きたいというから払って欲しいって祖母に頼んで払わせていたみたいだしな。俺は別に望んでいなかったのに。ほら、面白くないだろう?」

 首を横に振るしかできない。鶴丸先生が抱えている孤独を想像すると、苦しくて涙が出そうだった。

「もう終わったことなんだから、気にしないでくれ」
「終わってないです。だって、鶴丸先生は今も一人じゃないですか。大好きだったピアノを弾いているのに、鶴丸先生はいつも悲しそうで、先生が手を伸ばせばきっと孤独でない筈なのに」

 鶴丸先生には鶯丸さんや乱さんだっているのに。どうして、辛い方に行ってしまうんだろう。

「うん、そうなんだよな。でももう今更、一人が嫌だなんて言えないだろ。それとも君がずっと俺の傍にいてくれるのかい?」
「い、ます……一緒に」

 鶴丸先生は何も言わずに押し黙ってしまった。雨の音で、かき消されてしまったのだろうか。それとも、嫌だっただろうか。

「駄目ですか?」
「意味を、分かって言ってるのかい」
「はい」
「じゃあ今夜、一緒に寝るか」
「えっ」

 そこまで考えていなかった私は、驚いて声を上げてしまった。

「ほらな。好いていない相手にそういうことを言うものじゃない。もう少し自分を大切にしてくれ」

 先生は今度こそ、教室から出た。私は追いかけることもできず、ただ頭を沸騰させることしかできなかった。