風邪をひいて看病をしてもらった次のレッスンの日。私の心臓の鼓動はいつもより早かった。思い返せば、私はとんでもないことをしていたことに気付いたからだ。
いくら風邪で判断力が欠如していたとしていたとしても男の人が家にいるのにお風呂に入るのはどうなんだろう、と。それも一人暮らし。
朝はぼさぼさの髪にパジャマ姿を惜しみなく披露してしまっていたし……。
もしかすると、鶴丸さんが何か言いたそうにしていたのはそのせいかもしれない。そう思うと、私の羞恥は更に深くなった。
どんな顔をして会えばいいんだろう。
レッスンが始まるギリギリの時間まで鶴丸さんの家でおろおろする。結局、答えは出なかった。勢いのままに鶴丸さんの家に入り、俯いて「こんにちは」と挨拶をする。
「こんにちは」
鶴丸さんはちらり、と私を見るとすぐに目線をピアノに戻した。普段通りすぎて、私も鞄の中から楽譜を出して用意した。
なんだ、そんなに気構えるようなことではないんだ。ほっとしたような、苦しいような、変な気持ちだった。
鶴丸さんに言われた指の使い方も以前よりよくなって、最初に教えてもらった曲も弾けるようになった。
まだ指を触れられたり、耳に息が当たるほど近くで弾かれるとドキドキしてしまうけれど、最初ほどではない。息を止めて、唇をきゅっと閉じれば我慢できる。ドキドキしているのを知られたら、もう通えなくなるような気がしたから。
私の目は白くて長い鶴丸さんの指を追いかける。優しく、撫でるように触れられている鍵盤が羨ましかった。
レッスンはあっという間だった。次のレッスンの日にちを決めて、挨拶をする。
「鶴丸さん」
「ん?」
「先週は、ありがとうございました。風邪、うつったりとかしてないですよね? 大丈夫でした?」
もう少しだけ、話をしたかった。緊張で、声が震えていないだろうか心配だ。
「俺は平気だ。君の風邪が治ってよかった」
そこで、タイミングよく洋館の扉が開く音がした。
「つっるまっるさーん!」
元気のいい女の子の声。
パッタパッタとスリッパの音が響き、私と鶴丸さんがいる部屋の扉が開けられた。
赤みのかかった金髪の少女は部屋に入り、鶴丸さんの姿を見ると海色の瞳を輝かせた。私よりも背は低く、お人形さんのような愛らしい顔立ちだった。
「もー鶴丸さんなんでこんな所にいるの? 風邪は?」
「乱、そのことは……」
鶴丸さんがちらりと私を見た。やっぱり、風邪がうつってしまったのだろうか。乱さんを見るとぱちりと目が合った。
「ん、珍しい鶴丸さん家に女の人がいるなんて」
「彼女は俺の生徒だ」
私の前に鶴丸さんが立つ。見せたくないように、私と乱さんの間に入ったのだ。私が鶴丸さんからピアノを習っていることは言わないように口止めされていたのに、鶴丸さんはさらりと話したことが、何故かショックだった。
けれど、それ以外の関係なんて私達にはない。
「えっじゃあ、ピアノ教えてるの?」
「……あぁ」
「それ、鶯丸さんが知ったら喜ぶんじゃない?」
「周りには言わないでくれ」
「うーん、どうしよっかなー」
二人の親密そうな会話に胸が痛む。思えば、鶴丸さんが私以外の女性と話している所なんて見たことがなかった。この不可解なもやもやは何だろう。
乱さんは鶴丸さんに近づくと、そこから覗くように私を見た。近くで見る乱さんはやっぱりとても綺麗で、活発そうな美人だった。鶴丸さんとお似合いだ。
私は挨拶もせずに鶴丸さんの背に隠れたままなのは失礼だと気付いて、口を開いた。
「あっあの、私……鶴丸先生にピアノを教わってます」
「うん、僕は乱。僕もね、ピアノを教えてるんだ」
「そうなんですか」
「もういいだろう」
鶴丸さんは乱さんの顔を掌で覆う。
そんなに、私は見られたくない存在なのだろうか。
「んーもう! わかったから! でも鶴丸さんは駄目! 大丈夫そうだけど一応、布団の中に入ってよ!」
「腕を引っ張るな、乱」
鶴丸さんが私を見る。
「あの……風邪、ひいてたんですね。それなのに、ピアノ教えて頂いてありがとうございます、鶴丸さん」
「悪い、その……」
鶴丸さんにしては、歯切れの悪い返事だった。
「また再来週、な」
「――はい」
「はい、それじゃあ行くよ、鶴丸さん。放っておいたらすぐに無理するんだから」
乱さんと鶴丸さんが部屋から出て行って、私は小さく息を吐いた。
鞄の中に楽譜を入れて、できるだけ物音を立てないように鶴丸さんの家を出た。
「私、何をやってるんだろう」
何が、したかったんだろう。
目頭が熱くなって、涙を流す理由なんてない筈なのに泣きたくなる。
鶴丸さんにドキドキしてしまうのは、彼がかっこいいからで、私が鶴丸さんに恋をしているからだなんて思ったことはなかった。綺麗な指が鍵盤を触れる瞬間は、ため息が出るほど美しかったから。
だから、これが恋だなんて思ったこともなかったし、そう思ってはいけないと自分に言い聞かせていた。
鶴丸さんと乱さんが話しているのを見た時の私は確かに嫉妬していた。羨ましいと思っていた。……けれど私の理性は、その感情を許してはいけないと言う。鶴丸さんと私はただの先生と生徒なのに、鶴丸さんはピアノを教えたくないけれど困っている私が放っておけないからピアノを教えてくれているだけなのだから。
「しっかりしないと」
最後に恋をしたのはいつだっただろう。小学生だったか、中学生の頃だったか。あんまりよく覚えていない。そんな私がピアノの先生に恋をするなんてどうかしてる。
私は家への帰り道、これから鶴丸さんとどう接するか考えた。
今まで通り、は駄目だと思った。そのままでは、私はこの恋の道にずるずるとはまって抜け出せなくなるから。報われないと分かっているのに、はまってしまうなんて避けたいのだ。
鶴丸さんからピアノを習うのを止める、というのはできなかった。そもそも私がピアノを習いたいと思った理由は彼が弾いた曲を弾きたいからなのだから。そう、それなら私は――
◇
私が鶴丸さんへの恋心を自覚して、二週間が経った。鶴丸さんの家の扉を開けるのに、躊躇したのは最初のレッスン以来だ。家の門扉はあんなにも軽いのに、どうして玄関口の扉は重たいのだろう。
「お邪魔します……」
返事なんてないのに、小さく挨拶をして鶴丸さんの家に入る。スリッパを履いて歩き出せば、レッスンをする教室へはすぐに着いてしまう。
レッスンをする部屋の前で、私は軽く息を吐いて部屋に入った。部屋の中には、すでに鶴丸さんがいて、椅子に座り楽譜を読んでいた。
声を、かけたくなかった。
それでも私は言わなくてはいけない。
「こんにちは、"鶴丸先生"」
「こんにちは……?」
鶴丸先生が目を丸くして、私を見た。
私は逃げるように手提げかばんから楽譜を取り出すけれど、鶴丸先生は逃がさない。
「どうしたんだい、君。突然、先生だなんて」
「その、やっぱり……ピアノを教えてもらっているので、鶴丸先生って呼んだ方がいいかなって」
「別に、俺は今まで通りでもいいんだが」
私は曖昧に笑って、その話を濁した。
「それで、その……鶴丸先生に教えて欲しい曲があるんです」
これを言ったら、鶴丸先生がどういう顔をするのか今の私には想像できなかった。もし、嫌がれば止めよう。もしかすると、鶴丸先生が怒るかもしれない。その時は鶴丸先生からピアノを習うのも止めるべきなのかもしれない、とも考えている。
「鶴丸先生が、鶯ピアノ教室で弾いていた曲を……教えて欲しいんです」
「えっと」
鶴丸先生が戸惑った顔をした。怖くて、私は言葉を続ける。
「教えることができなかったら、せめて曲名だけでも教えて欲しいんです。楽譜が見つかれば一人で練習するので……あの、やっぱり駄目ですよね?」
先生の顔色を窺う。けれど、どう思っているのか読めない。少しの間があった後、鶴丸先生は話した。
「……君が知りたいのなら、教えよう」
「い、いいんですか?」
「君は断られると思って、きいたのか?」
「はい……ダメもとで」
「だから弾きたい曲はないのかって俺が聞いた時、答えなかったんだな。はぁ……そうか」
「怒らないんですか?」
私は恐る恐るたずねた。だって、それは鶴丸先生に白羽の矢が立った理由にもなるのだから。怒って当然だろうと思っていた。
「んーなんでだろうな、怒れそうにない……」
鶴丸先生は困ったように笑って、続けて言った。
「たぶん、俺も君と同じでこの曲がきっかけでピアノを習い始めたからなんだろうな。だから、いい。それに俺は鶯丸の教室が空くまで君にピアノを教えると約束したんだ」
「嫌だったら、断っていいんですからね」
「嫌じゃないさ。君こそ、言い辛かっただろう」
私の目を見つめて、鶴丸先生は微笑み、頭を撫でる。それは全くの不意打ちで、私は直立したまま動けなくなってしまった。こういう時、どういう反応をすればいいのか分からない。
ふと、私の頭を撫でる手が止まった。
「その、だな……」
「は、はい」
顔を少し上げてみると、鶴丸先生はどういう訳か、陶器のような白い肌を赤く染めていた。
「つい触ってしまった。不用意に触るのは良くないな。嫌だったら、すまない」
「いっいえ、気にしませんから」
嫌じゃないです、と口にしたくなるのをぐっとおさえる。気持ちが溢れて止まらなくなるのが怖かった。やっと決心したというのに、鶴丸先生の不意打ちのせいで全て無駄になってしまう所だった。どうしてこんなに、心臓に悪い人なんだろう。
気を取り直して、私は椅子に座る。
「それじゃあ、先にこの前の続きからしようか」
私は二週間練習した曲を弾いた。普段以上に練習したこともあって、するすると次へ進む。残り20分になった頃、鶴丸先生は席を離れて楽譜が仕舞われている棚の前に移動した。そこから楽譜を取り出すと、私の前の譜面台に広げた。
「君が弾きたいのはこの曲だよな」
鶴丸先生が楽譜に書かれている曲を弾く。その曲は鶯ピアノ教室で聴いた曲で、私が弾きたい曲だった。
「はい、その曲が弾きたいんです」
私は楽譜を読む。手書きで書かれた音符は、けれど読みやすかった。どうして手書きなのか聞こうとして、私はやっぱり躊躇って他のことを質問した。
「鶴丸先生、曲名って何ですか」
「曲名はない……んだがそれだと困るよな」
鶴丸先生は「うーん」とうなると、私をちらりと見て言った。
「君がつけてくれないか」
「え?」
「俺は弾きすぎて、曲名とか考えられないんだ。分かりやすい曲名なら何でもいい」
「そういわれても……」
なんでもいいと言われても、困ってしまう。
分かりやすい曲名、というのなら短い名前がいいのだろう。でも、憧れていた曲に仮とはいえ名前をつけてもいいのだろうか。
私は少し悩んだ後、答えた。
「『月明かりの海』とか……はないですよね」
「ん、じゃあ月明かりの海な」
「あああの! やっぱり恥ずかしいです!」
自分が考えた曲名を鶴丸先生の口から聞くと、中二病を発病させていた時に考えた名前や必殺技を言われているような気分になってしまう。とてもいたたまれない。
「俺はいいと思うぜ?」
「私は恥ずかしいです」
「でも、このままじゃあレッスンの時間が消えていくだけだから、月明かりの海にしような」
そんなことを言われたら、反論なんてできなくなる。私は諦めて、楽譜に向き直る。一音、ピアノが鳴るだけで私の羞恥は消えて、念願だった曲が弾ける喜びで満たされていく。
綺麗で、儚くて、今にも壊れてしまいそうな曲。私ではまだぎこちなく、所々おかしな音になってしまうけれど、一歩近づけた。それだけで、良かった。
隣では鶴丸先生が弾き方を教えてくれる。跳ねずに、ここは繋げるように。鍵盤には触れたまま次の音。鶴丸先生の指を追いかけているみたいだった。思えば、私は結果的にいつも鶴丸先生を追いかけてる。でも、それでもいい。追いかけられる所まで、追いかけたい。この時間だけは、許されるような気がするから。
レッスンが終わるのはあっという間だった。楽譜は鶴丸先生がコピーして渡してくれて、私達はあんまり会話をせずにさようならをする。
「さようなら、鶴丸先生」
「さようなら」
鶴丸先生が寂しそうに笑っているように見えたのは、たぶん私の願望だろう。
先生の家を出ると、夕焼けが目に染みた。風は少し冷たくて、私が鶴丸先生と出会った日はもうすっかり遠い。秋だった。
――さようなら、鶴丸さん。
最後にもう一度、心の中で挨拶する。
頬が、涙で濡れて温かかった。