鶴丸さんからピアノを教わることが決まって、一週間。
仕事をしていても、ふとした瞬間に鶴丸さんのことを思い出すことがしばしばあった。姿も、声も、匂いも、忘れられない。それと一緒に、鶯ピアノ教室で聴いた曲も思い出した。
どうしてだろうと考え、けれど結局答えは出ない。
土曜日の午後は日差しが少し強いけれど、できるだけ露出が少なくて涼しい格好を選ぶ。鶴丸さんに言われて買った教本を鞄の中に入れて、バスに乗った。
そしてドキドキしながら鶴丸さんの家へと続く道を歩き、辿り着いて門扉の前で立ち止まった。
……どうやって入ればいいんだろう。
インターフォンは見当たらなくて、玄関と門扉の距離がそれなりにある家に入ったことは鶴丸さんの家以外、経験がない。
勝手に中に入ってもいいのだろうか。なんだ、この人はと思われないだろうか。けれどその方法しか分からない。時間を確認してまだ8分時間があることに気付いて、心の準備をしようとす、すぅ、は。
門扉の前で下手な深呼吸をしていると、ガチャリと洋館の玄関扉が開いた。
「君、いつまでそうしているんだい」
「あっう、はい」
どこまで見られていたんだろう。
急いで門扉を開いて、私は鶴丸さんの家にお邪魔した。門扉は案外軽くて、簡単に開いてしまった。
「俺の家の前で立って、いつになったら来るのかと思ったぜ」
「勝手に入っていいのか迷ってしまって……」
「ん、あぁそういうことか」
納得した、と鶴丸は頷いた。
「勝手に入って構わないぜ。これからは気にせず、この部屋で待っててくれ」
この部屋、と言って鶴丸さんが部屋に入る。その部屋は明るく、二台のピアノが並んでいた。
「ピアノ、二台あるんですね……」
「昔、ここで祖母に教えてもらってたからな」
部屋の奥のピアノの前で鶴丸さんは座るので、私はその隣に座った。手提げかばんから教本を取り出して渡す。
「それじゃあ、これからよろしく頼むぜ」
「はい。こちらこそよろしくお願いします」
私と鶴丸さんのレッスンが始まった。
「まず最初は……指の使い方から練習しようか。俺が弾いた通りに弾いてみてくれ」
白くて骨ばった指が、鍵盤を撫でるようにすうっと動いた。私も、それを追いかけるようにドレミファソラシドと弾くけれど、鶴丸さんの音とは全然違ってなんだかガタガタだ。あ、あれ? と首を傾げる。親指が上手く指の下を移動することができない。
「今度はさっきよりゆっくり弾いてみようか」
「はい」
ゆっくり弾いても、やっぱりおかしい。
「指に力が入ってないな。ふにゃふにゃしてるんだ。物を持つような手をするんだ」
五本の指全部を使って何かを使うような手の形をして見せた。私もそれにならって手の形を変える。
「こう、ですか?」
「もう少し手の甲を上げて指を……」
鶴丸さんは私の背後に立つと、手を取って教えてくれた。
「そのまま鍵盤を下に押すんじゃなくて、優しく撫でるように弾いてみな」
言われた通りに弾く。するとさっきよりもまともな音が出た。
「わぁ……さっきと全然違う!」
「ははっそうだな、忘れないようにこれは家で練習してくれよ?」
ふっと鶴丸さんの息が耳にかかる。背筋に弱く何かが駆け上がる感覚がした。背中に鶴丸さんの体が当たっているとその時になって気づき、頬が熱くなる。
「……っ」
「ん?」
「何でもないです、練習します」
体が当たっていることを指摘してどうするのだろう。彼は真面目に私に教えてくれているのだから、それに対してやましい感情を抱くなんていけないことなのに。
私の背よりも広い体が離れていく。自分とは違う熱が消えていく感覚に、もう少し触れていたかったと思ってしまうのが申し訳ない。
弾き方を教えてもらった後は、楽譜を見ながら弾いて、鶴丸さんに教えてもらった。一時間はあっという間で、鶴丸さんに「時間だな」と言われるまで私は全く気付けなかった。
「こんな感じだが、再来週も来るかい?」
「行きます。教えてくれて、ありがとうございます鶴丸さん」
「君がちゃんと俺の言うことを聞いて弾いてくれて、俺も教えやすかった」
「また、よろしくお願いします」
私と鶴丸さんの二週間に一度のレッスンはそれから何度も続いた。鍵盤の押し方のコツを教わるために肩を指で押された時は、しばらく忘れられなかったくらいに、官能的なものがあった。
とても順調に日々は過ぎていき、いつの間にか八月は過ぎていた。
そして九月、まだ残暑の厳しいその日に、私はとうとうやってしまった。
ピピッ、という小さな電子音。脇にはさんだ体温計を取り出して、熱を確認する。38.6℃という無慈悲な数字。八月はずっと忙しかったから、気が抜けて風邪をひいてしまったのだろう。
体はすごく熱くて重たくて、息が上手に吸えなくて息切れした。
「お水……ごは……ん……」
風邪薬は前に風邪をひいた時に処方してもらった薬の残りでもいいだろう。午前中までに病院なんて、この体では行けそうにない。
炊飯器の中を見ると、お茶碗一杯分だけあった。とりあえず、ある分だけ食べて、薬を飲んで布団の中に入る。
目を閉じてまどろみかけて、はっとなる。このまま寝てしまうのはまずいと思った。
今日は土曜日。鶴丸さんとレッスンの約束をしている日だった。スマホを取って、鶴丸さんに電話をかける。
『鶴丸だ。どうしたんだ?』
機械越しに、優しい鶴丸さんの声がした。
「今日、風邪をひいてしまって」
「……うか……?」
「えっと……」
キィーンと耳鳴りがして、鶴丸さんの声がよく聞こえない。頭はくらくらして、変な汗が突然出た。視界がぐにゃり、と歪んで怖くなって目を瞑る。舌がひりひりして、喋ることも難しい。
どうして、こんなに突然。
声を出した途端、気分が悪くなった。ちゃんと説明したいのに、もう無理、と思った。
「休ませて、いただきま……す……」
最後まで、言えたかどうか分からない。
私の意識は、波に揺れるようにぐわんぐわんと揺れて消えていく。もう何も考えられなかった。
耳鳴りはまだ続いている。
少しだけ、少しだけ休んですぐに、鶴丸さんに――。
…
ピンポーン、ピンポーン。
何かの音がするなぁ、と思った。その音の間隔は次第に狭まっていく。
ピンポーン、ピンポン、ピンポン、ピンポーン。
音が消えると、今度は何かを叩く音。トントン、トントン、と誰かを呼ぶ声がした。
そこでやっと私の意識は覚醒した。けれど体は熱くて重たくて、そうだ、今私は風邪をひいているんだ、と思い出す。
目だけを動かして、時計を確認すると午後の3時だった。
外からはまだ誰かを呼ぶ声がする。ゆっくりと体を起こして、ぼんやりして中々止まない声に、その声はもしかすると私に対してではないだろうかと気づく。
こんな時にいったい誰だろう。通販で何かを頼んだ覚えはない。
玄関口の覗き穴から、見えた人物にハッとなって、すぐに扉を開けた。
「は、はい!」
「よかった、生きてたんだな……」
家の前にいたのは鶴丸さんだった。私の姿を見ると、眉尻を下げてほっと息を吐いた。
「わ、私……ちゃんと連絡できてませんでした?」
「通話、切れないままだったから、心配した」
「すみません」
意識を失ってしまう前に、鶴丸さんに連絡していたことを思い出す。最後があやふやで、彼の言う通り私は話途中で眠ってしまったらしい。こんな終わり方では、嫌な気分にもなるだろう。まさか家まで来てもらうとは思わなくて、謝ることしかできない。
「それより、入るぜ。君は寝てくれ」
「えっ」
玄関に一歩鶴丸さんが踏み入れて、私との距離がぐっと狭くなる。ガチャン、と玄関の扉が閉まる音がする頃、私の背には鶴丸さんの腕が回っていた。
「へ?」「あれ?」と間抜けな声を出すことしかできずにいると、足は勝手に鶴丸さんに支えられながらベッドへと戻ってきた。
鶴丸さんは私を布団の中に入れると、私の額に手を当てた。
大きな手はひんやりとしていて、気持ちいい。
「触っただけでも熱いな。今まで寝てたんだろう、お腹空いてないか?」
「大丈夫です……。それより鶴丸さん、ここまでしてくれなくても」
「馬鹿か、君は。風邪をひいた時くらい、甘えてくれ。というより、こんな状態の君を残して帰れるか。台所、借りるぞ」
鶴丸さんは返事も待たずに台所の方へ行ってしまった。追いかけたいけれど、体が重たい。無理に起きれば、鶴丸さんに怒られるだろう。でもシンクの中には、洗わないまま水につけてあるだけの食器がたくさんある。駄目な女だなぁ、とか思われないだろうか。
布団の中でオロオロしてどれくらい経ったのだろう。鶴丸さんが台所から帰ってきた。
「もう少しでお粥ができるからな」
「ありがとうございます」
「寝ていても、よかったんだぞ?」
「いえ、そんなことできません……」
「ん、まぁそうだよな」
「それより、どうして鶴丸さんどうやってここまで来たんですか」
携帯の電話は交換したけれど、家の住所は教えていない。
「……そのことか」
そっと、形のいい眉を寄せた。
「鶯丸に、聞いた」
確かに、鶯丸さんには教えたけれど。でも鶴丸さんは私にピアノを教えていない、ということになっていた。
「えっと、大丈夫なんですか」
「ん……んん、まあなんとかなるだろう。お、そろそろお粥ができそうだな。見てくる」
そのことはこれ以上、聞くなと言われた気分だった。追及する体力も今の私にはなく、鶴丸さんが作ってくれたお粥を食べることにした。
お茶碗に入った卵粥はとてもおいしそうで、朝にご飯一杯しか食べていない私は口が緩みそうだった。
「起きれるか?」
「は、はい」
まだ横になっていたいけれど、上半身を起こす。お粥を受け取ろうと、手を伸ばすけれど渡してくれない。
「鶴丸さん?」
「持てるか?」
「それくらい持てますよ」
「そんな力のない腕を出されてもなぁ……」
普通に手を伸ばしているだけなのに、鶴丸さんには辛そうに見えるのだろうか。
「は、早く下さい……お腹すきました……」
「いや、やっぱり俺が持っていよう。君は猫舌か?」
「そうですけど、そうじゃなくて、あの私自分で」
「俺と一緒だな」
お粥をスプーンですくって、ふう、ふう、と息をかける。自分で食べれるのに、お茶碗をくれない。まさか「あーん」をされるのだろうか。想像しただけで熱が上がりそうになる。
「これで大丈夫かな。そら、食べてみろ」
「うっ、あっ……」
唇にスプーンが当たる。困ってしまって鶴丸さんを見るけれど、彼はふわりと笑って唇をつつくだけ。
自棄になった私は僅かに口を開く。すると、その隙間にぬっとスプーンが入った。程よい温かさのお粥の感触と、卵と塩の優しい味が口内に広がる。久しぶりに食べたお粥はとても美味しかった。
「どうだ?」
「……美味しいです」
その返答に満足した鶴丸さんは、嬉しそうにまたお粥をすくって冷ます。一度受け入れてしまった私はもうそれほど羞恥もなくなってしまって、口をぱくぱく開いて鶴丸さんのお粥を受け入れた。
「も、お腹いっぱいです……」
「そうかい? それはよかった」
「はい、ごちそうさまでした」
「俺はこいつを洗ってくる。君は寝ていてくれ」
「ありがとうございます」
ふう、と息を吐いて私は再び横になる。
寝てからまだ2時間くらいしか経ってないのに、お腹が満たされたおかげか瞼が重い。
台所では鶴丸さんが食器を洗っている。寝てはいけないのに、鶴丸さんがいるからかほっとしてしまう。
寝てはだめ、寝てはだめ、と何度も言い聞かせるけれど、頭の中を濁った白色が覆い何も考えられなくなっていく。ぷつりぷつりと、たくさんの意識の糸が切れていくのを感じた。
次に目を覚ました時、部屋の中は真っ暗だった。誰かがこの部屋にいたような気がするけれど、どこまでが夢なのか分からない。
台所の方を見て、ああ、鶴丸さんが来たんだ、と思い出す。そしてあれからどうなったんだろう、と私は焦る。私が勝手に眠ってしまったせいで、困ったり怒ったりしなかっただろうか。
熱は、もうほとんど下がっていた。体中が汗でべとべとして気持ち悪いくらい。軽くシャワーで流そうと思い、体を上げて息を呑む。
「つ、るまるさん……?」
鶴丸さんがベッドの隣の床に座り、頭だけをベッドに預けて眠っていた。
どうしよう、起こした方がいいのだろうか。固まって鶴丸さんをじっと見ていると、彼の方からむくりと起きた。
「……起きたのか」
「は、はい」
「熱はもう大丈夫か」
暗い部屋の中、鶴丸さんの手が私の額に伸びる。熱がほとんどないことを確認すると、「よかった」と私の額を撫でた。
「ごめんなさい、先に寝てしまって」
「いや、気にしてないでくれ。俺がそうしたくてそうしたんだ。そろそろ、帰るか……邪魔したな」
「えっま、待ってください!」
立ち去ろうとする鶴丸さんを止める。今は深夜の三時で、こんな時間ではバスも通っていない。確か鶴丸さんは車を持っていないから今から帰るとなると、かなり長い時間を歩くことになる。
「敷布団出すので、朝まで寝て行って下さい」
「でも俺は……」
「ちょっと待ってて下さいね」
まだ何かを言いかける鶴丸さんの言葉を遮って、私は布団を出した。私のベッドの隣に布団を敷くと、彼は私と布団を交互に見て、はぁ、と息を吐いた。
「そうしてもらえると、こっちとしてはありがたいが……」
「それじゃあ私、お風呂入ってくるんで! 寝ていて下さい」
「待ってくれ、君はそ」
とにかく、今の私は汗が気持ち悪くて仕方がない。まだ体はだるいけれど、朝に比べればマシだった。逃げるようにお風呂に入れば、鶴丸さんの声は止んだ。さすがに着替え中にお風呂場には入らないだろうと考え、すぐに服を脱いでシャワーを浴びる。
お風呂から上がると、鶴丸さんは用意した布団で既に眠っていた。寝顔をじっと眺めたくなるのをぐっと我慢して、私もベッドに入る。残っていた体力をシャワーを浴びるのにほとんど使い切ってしまったせいか、すぐに眠ることができた。
――朝、目が覚めると鶴丸さんは既に起きていて、何だかむすっとしているように見えた。鶴丸さんが用意してくれた食事を二人で食べながら、私はその理由を考える。昨晩、私は何か失礼なことをしてしまっただろうか。先に眠ってしまった時は不機嫌だなぁとは感じなかった。目の下には薄ら隈ができているような気もするし……。
温かいお味噌汁を飲んで、ほっと息を吐いて、ああそうか、と納得する。
「ごめんなさい、鶴丸さん」
「どうした急に」
突然の謝罪に、きょとんとした顔をする。
「昨晩、私だけお風呂に入ってしまって……。食器は私が洗うので、その間、シャワーだけでも浴びて行」
「食器は俺が洗う。風呂は入らないで帰る!」
即答だった。怒らせてしまっただろうか、彼の頬は少し赤かった。