土曜日、私は鶯丸さんに教えてもらったバスを降りた。
周辺は木々が多く、人の姿は見えない。本当にここであっているのだろうかと不安になるが、バスの通りも少ないようで帰りのバスの時刻を確認すると一時間は待たなくてはいけないみたいだった。
引き返したくても引き返せないので、言われたとおり道なりに歩くことにする。ぽかぽかの陽気と花の香りが緊張をほんのすこしだけ解してくれる。行ける所まで行って見ようと足を進め、15分歩いたその先に古い洋館があった。
『――バスを降りてまっすぐ歩いたら大きな家がある。そこでピアノを教えてもらうといい』
鶯丸さんのとてもアバウトな説明を思い返した。確かに、これは大きな家だ。けれど人が住んでいる気配がない。
洋館の周りは殺風景で、手入れも何もされていなかった。せめてピアノ教室しています、とか家の表札があればと探してみるがそれも見当たらない。
「どうしよう……」
まだ先に歩かなければならないのだろうか。先を見れば、木が育ち過ぎたせいで仄暗い雰囲気だ。
できればこれ以上進みたくなくて、誰かいないだろうかと洋館の中を見ようと目を凝らす。しかし門扉と館の距離はそれなりにあり、窓の中を見ることは難しい。
「空き巣か?」
「ひゃっ」
突然後ろから声が降り、私は肩がびくりと上がった。
「違うんです、道に迷ったかもしれないので、この家に誰か住んでいたらこの先に大きな家があるかどうかを聞こうと……!」
早口で理由を話しながら、後ろを振り返る。
「へぇ、そうなのか……ん?」
目が合った途端、私は次の言葉が出なくなった。
目の前の男の人は首を傾げる。
「どうしてきみがここにいるんだい?」
その人は一週間前、私にピアノを教えてくれた鶴丸さんだった。丸い瞳をぱちりとさせる。
「あ、あの! 私、鶯丸さんにピアノを教わりたいとお願いしたらここに行けと言われまして……」
手元の住所が書かれた紙を鶴丸さんに渡す。彼は「んん?」と戸惑うような声を漏らして紙を見る。
「……ここのことだな」
一瞬、とても冷たい氷のような瞳になったのは私の見間違いだろうか。鶴丸さんは顔を上げると私に紙を返し、口元だけにっこりと笑った。
「だが、ピアノを教えるつもりはないぜ? 帰って鶯丸に伝えてくれ」
「そんな……!」
「こんな場所まで来てくれて悪いんだがな。ほら、帰ってくれ」
鶴丸さんはさっさとしてくれ、と言わんばかりに私をじっと見た。体験レッスンの時もそうだったけれど、鶴丸さんは無理矢理ピアノを教えさせられたのだ。今回のことも知らなかったのだろう。断るに決まっている。
……けれど、まさか住所の場所が鶴丸さんの家だったなんて。それは私も聞いていなかった。
教えたくない人に二度もピアノを教えてもらうのは申し訳ないので、私は諦めることにした。帰ってくれ、というなら私は帰るしかないだろう。
「すみません、それじゃあ帰りますね」
「……ああ、そうしてくれ」
鶴丸さんに会釈すると、私は帰ることにした。
あんなにぽかぽかしていたお日様はいつの間にか雲で隠れていて、来た時よりも暗く感じるその道を私はゆっくりと歩いた。
…
真っ直ぐ進むだけだから、迷うことはない。その筈だった。
どれほど歩いただろうか。20分近く歩いた所で、ここは歩いたことのない道だと気付く。
日が隠れているから。行きと帰りでは見えるものも違うから。ここはぼうっとして見ていなかったのかもしれない。……なんて思いながら前に進み過ぎたのだ。戻ろうにも分かれ道を発見してしまい、もう自分がどこから来たのか全く分からなくなってしまった。
「どうしよう」
もしかしなくても、迷子だ。しかも周りに聞ける人が誰もいないし、久々に長時間歩いたとこで足がひりひりして痛い。
もう一度、鶴丸さんの家に行ってみよう。たぶんそこで進む場所を間違えたのだと思うから。とにかく一旦戻ろう、戻ろう……と思うけれど木々に囲まれた道に慣れておらず、どの道を選んでも同じ景色にしか見えない。
「ま、まあなんとかなるかなぁ」
とにかく山を下りよう。バスはこの際諦めて、下り坂になっている道を選ぼう。
その判断が正しかったのか、私はなんとか鶴丸さんの家まで辿り着くことができた。ああ、やっぱり反対の道を歩いていたみたい。
「よかった……」
これならそのまま真っ直ぐ歩けばバス停の場所に行くことができるだろう。ちょうど鶴丸さんの家の前を通る時、洋館の扉がゆっくりと開いた。思わずそちらを見ると、鶴丸さんが驚いた顔をしていた。
「まだいたのか」
「あ、鶴丸さん……」
どうしてか、「やばい、見つかった」という気分になる。ずっとこの家の前にいたわけではないけれど、彼からして見ればそういう風にしか見えない。
「違うんです! ちょっと道に迷ってしまって、さっきまで森の中を彷徨っていたんです!」
「森の中って、きみ……それを二時間もか……?」
「は、はい……」
鶴丸さんと出会ってからもうそんなに時間が経っていたなんて。
消え入りそうな声で返事をすると鶴丸さんは小さくため息を吐いた。
「それじゃあ、私はこの辺で」
「……休憩していくかい」
「えっ」
聞き間違いだろうか、と鶴丸さんの顔を見るが彼はもう一度私に言う。
「バスならちょうど今、出発したばかりだろう。後一時間ある。何時間も歩いたなら疲れただろう。男の家に入りたくないというなら引き留めないが」
男の家。
今まで意識していなかったが、そう言われるととても入りづらくなる。けれど、鶴丸さんなら何もしてこないだろうし……。
「それじゃあ、少しだけ休憩させてもらってもいいですか?」
「いいんだな?」
「は、はい……?」
鶴丸さんの確認の意が分からないけれど、森で迷う以上の悪いことはないだろう。ひりひりする足を動かして家の中に入る。大きくて重たそうな玄関のドアを鶴丸さんが押さえてくれていた。
一歩、家の中に入る。家内は和洋折衷で、けれど異国風の空気に緊張する。
「お邪魔します……」
「いらっしゃい!」
「ひゃっ」
扉を閉めた鶴丸さんは私の後ろに立つと、両肩をしっかりと掴んだ。驚いた私の肩はびくりと上がり、恥ずかしい声が漏れてしまう。
「なんだ、これだけで驚くのか」
「そりゃあ、驚きますよ」
「はは、悪かった。スリッパはそこにあるのを適当に使ってくれ」
玄関先にある無地のスリッパを履き終わって顔を上げると、鶴丸さんはもう私より先に廊下を進んでいて私も慌てて追いかける。
「飲み物は何がいい? 冷たい方がいいかい?」
「いえ、お構いなく」
「そういうわけにもいかないだろ。水分はとるべきだぜ、冷たい麦茶にするか」
「そこまでして頂くわけには」
「きみなぁ」
突然、鶴丸さんがくるりと私の方を振り返った。顎を掴まれ、顔が上がる。蜜色の瞳が私をじっと捉えていた。
「慎み深いのもいいことだが、人の好意は受け取っておくものだぜ?」
桜色の唇が滑らかな曲線を描く。
耳に心地いい甘い声に、胸がトクンと高鳴った。
何も言えないままでいると、鶴丸さんの眉が不満そうに皺を寄せた。
「……返事は?」
「は、い」
「いい子だ」
するり、と顎から手が離れ、鶴丸さんは私に背を向ける。
何が起こったのか反芻して、頬が熱くなりそうだった。瞳が、唇が、声が、忘れられない。その熱を少しでも逃したくて、ふう、と小さく息を吐く。
なんて、心臓に悪い人だろう。
連れてこられたのは、食事をする部屋らしかった。明るいブラウンの机と椅子があって、机の真ん中には小さな瓶の中に一輪、花が活けてあった。
「適当に座ってくれ」
コップを二つと、冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出す鶴丸さんを見ながら私は椅子に座った。
「なんだかすみません。ピアノ教室でも無理に教えて貰ったのに、今日も押しかけるように来てしまって」
「気にしなくていいぜ。むしろ君の方が辛いだろう。わざわざこんな街から離れた場所に来て、追い返されるなんて。鶯丸の仕業だ」
「で、でも」
鶯丸さんがここを紹介したのは、私のせいだと思った。私が、鶴丸さんがピアノ教室で弾いていた曲を弾きたいなんて言ったから。だから彼は私に鶴丸さんの所に行かせたのだろう。……まさか教えてもらった場所が鶴丸さんの家だなんて思わなかったけれど。
「ほら、麦茶だ」
それ以上は聞かない、と断るように私の前にコップが突き付けられた。
「あ、ありがとうございます……」
私は両手でコップを受け取った。
鶴丸さんも椅子に座ると、こく、こく、と小さな音を立てて麦茶を飲んだ。
私も話すのを止めて、麦茶を飲むことにした。
からからに乾いていた口内が冷たいお茶で潤って、一口飲みだすと止まらなくなった。
麦茶を半分ほど飲み乾して、ほっと息を吐くと視線を感じて前を見る。すると、鶴丸さんは頬杖をついて私をじっと見ていた。
「喉、乾いてて」
聞かれてもいないのに、私はたくさん飲んでしまった理由を話してしまう。
「ん? いや、気にしなくていいぜ。喉乾いたんだろう」
ほら、もっと飲めと言わんばかりに、鶴丸さんは冷蔵庫から麦茶を取り出し、私のコップに注ぎ足した。
実際、とても喉は乾いているので強く止めることもできない。もう一度、お礼を言って今度はがっつかないように……控え目に麦茶を飲んだ。
「ピアノ、習うことにしたのかい?」
「はい。弾きたい曲ができたので、もう一度してみようと思ったんです」
「へえ、弾きたい曲か。なんて曲だい?」
「ええっと……」
これは言ってもいいのだろうか、と目が泳いでしまう。鶴丸さんが鶯ピアノ教室で弾いていた曲だと知られたら、どうして鶴丸さんに白羽の矢が立ったのかバレて、冷たい目で見られるんじゃないか。
弾きたい曲ができた、なんて言わなければよかったと今更後悔する。
どう答えればいいんだろう。
「まあ、俺が教える訳じゃないからな。言いたくなければいいさ」
「うっ」
傷つけてしまっただろうか、と鶴丸さんの顔を窺うが彼は特に傷ついた風もなく、もうその話題はどうでもよさそうだ。
「ちょっと俺からも鶯丸に電話してくる。君だと鶯丸に押し負けそうだ」
「……すみません」
否定ができなくて、謝ってしまう。現に、住所程度の情報しか貰っていない中、鶴丸さんの家に来たのだ。
鶴丸さんが部屋を出るのを見送ってから、ごくごくと麦茶を飲む。
少しして、食事場所の近くに電話があるのか、鶴丸さんの話し声が聞こえた。最初は落ち着いた声音だったが、次第に戸惑ったような声音に変わる。「待ってくれ」とか「話を聞いてくれ」とか……どうやら鶴丸さんも押し負けている気配がする。
「君が教えればいいじゃないか! どうしてそうな……いや、俺が彼女の先生を探すのは難しいだろ、君なら分かって……おい、鶯丸!」
そこで声が聞こえなくなり、鶯丸さんが返事を待たずに電話を切ったのが分かる。鶴丸さんはため息を吐きながら、部屋に入ってきた。
「すまない……俺でも駄目だった。どうやら、平日の昼間しか空いてる時間がなくて君を教えることができる人がいないらしい。その……他のピアノ教室を当たった方がいいんじゃないのか。たらい回しにするみたいで悪いんだが」
「いえ、連絡して下さっただけでもありがとうございます。そうですね、他……って、どこかいい教室知ってます?」
「ん……いや、俺もそういうのはよく分からなくてな。あ、待ってくれ。パソコンがある」
鶴丸さんはパタパタと足音を立てて部屋を出て、小さなノートパソコンを片手に戻ってきた。
「最近はホームページを作って宣伝している教室もあるからな」
「この町で作ってる方、いるんですか……?」
「田舎だが、いるんじゃないのか。とりあえず調べてみようぜ」
今度は隣に座り、パソコンの電源をつける。それほど時間もかからず起動して、私たちが住んでいる町とピアノ教室を入力して検索する。
「……一番上、鶯ピアノ教室ですよね」
「そうだな。これは見ないでおこう」
どうしてなのか、聞こうと思ったが今はピアノ教室を探しているのだ。通えない場所のホームページを見ても仕方がないということなのか。とにかく、気になるならば家に帰ってから自分で調べてみる方がいいだろう。
二番目は『らんらん教室』で、サイトの内容を見て鶴丸さんは「うーん」と小さく呻いた。
「ここは小さい子を受け入れてるみたいだな。他の方がよさそうだ」
「そうですね」
その次の検索結果を鶴丸さんはクリックせずに、下へスクロールしてしまう。
「あ、あの鶴丸さんさっきのは……?」
「あれは駄目だ。女癖が悪いと有名だから止めた方がいい」
「え……そうなんですか」
それなら止めた方がいいのかもしれない。
けれど、三番目はあまりいい話を聞かないからだめだと却下され、四番目も教える人が男性だからと渋り……それ以外は、私には距離があって通うには辛いかなぁと思ってしまいどこもいい場所が見つからない。
「……案外、見つからないんだな」
それは鶴丸さんが厳しく選んでいるからなんじゃ……。
「でも、もしかしたら鶯ピアノ教室、空きが出るかもしれませんし、それまで待ちます。一緒に探してくださってありがとうございました」
「役に立てなくてすまない」
本当に、すまなさそうに目を伏せられ、私は慌てた。
「大丈夫ですから! 気にしないでください」
……それに、私は鶴丸さんが鶯ピアノ教室で弾いた曲の名前も知らないから、その曲と縁のある鶯ピアノ教室で習わなければ意味がない。よくよく考えたら、他の教室に行ってしまったら私は知りたい曲から遠ざかってしまうんだ。
「でもなぁ……」
鶴丸さんはそこで口を閉ざしてしまった。
まだ出会って二回目なのに、どうしてこんなに親身になってくれるのだろう。私のピアノを習いたいというわがままなのに。
これ以上厄介にはなれなくて、私は席を立つ。
「それじゃあそろそろ私、帰りますね。ありがとうございました」
「待ってくれ!」
がっしりと腕を掴まれ、息が止まった。焦りを孕んだ声音で、鶴丸さんは早口に話す。
「鶯丸の所の教室が空くまでの間、俺が教えてもいいか」
「へっ?」
「俺は君に教えたのが初めてだし、教え方が下手かもしれないんだが。嫌ならいいんだ。こんなバスもあまり通らない場所じゃあきついだろうし、ああでも時間はいつでも俺は平気なんだが」
どうだろう、と鶴丸さんが自信なさそうに私の顔を覗き込む。
「……教えたりするの、嫌なんじゃないですか?」
「その、嫌いではないんだ。ただ少し事情があって……もし、俺でよければ俺から習っていることは他言無用にして欲しい。鶯丸にもだ。彼は俺がピアノを教えるようになったと知ったら、君以外も紹介しかねないからな」
どんな事情なのかは聞かないけれど、いいのだろうか。
「い、いいんですか? 鶴丸さんに教えてもらえるなら、嬉しいですけど……」
「そうか、よかった。それじゃあ――」
そうして、私は鶴丸さんからピアノを教えてもらうことになった。
その日の内に、習う曜日と時間を決めて、もしもの時のために電話番号も交換する。
けれど、全てが決まって鶴丸さんの家を出ても私はほっとできなかった。これでよかったのだろうか、と不安な気持ちになってしまう。
できない生徒で、呆れられてしまうんじゃないか。
そんな、不安。
それでも……ああ、来週またここに私は来れるんだ。また、鶴丸さんと会えるんだ。
不安と、自分でもよくわからない期待を胸に抱えて、私はバスに乗った。