1 初めて聴いたその音が
 土曜日の夕方。その日の空は曇天で今にも雨が降り出しそうだった。

 私は古い洋館の前にいた。住宅街からすこし離れた場所に建てられた洋館の周りは殺風景だ。普段、通りかかった車の音しかしないというのに今日は珍しくピアノの音が流れていた。

 悲しくて切ない音色に胸が痛くなる。

 スマホで時間を確かめると、調度レッスンが始まる五分前。
 門扉はキィという金属の錆びた音を立てて私を迎え入れる。鍵もなにもしていないこの洋館が時々とても心配になる。

 重たい玄関ドアを自分の体がぎりぎり入る程度に開け、そっと家の中に入る。本当にこの扉はやたらと重たい。初めてこの家に入る時は鍵がかかっているんじゃないかと勘違いしたほどだ。

「こんにちはー……」

 家の持ち主には勝手に入っていいと言われているが、せめて家に入る時に挨拶くらいはしておきたい。ぼそぼそ声だけど。
 家の中に入ると、鶴丸先生の匂いで胸がいっぱいになる。期待に胸が高鳴って、まだ会ってもいないのに頬が熱くなった。

 家の中は和洋折衷だ。靴のまま家の奥へ入ることはできない。私は秋物のショートブーツを脱いで無地のスリッパに履き替えると、ぱたぱたと足音を鳴らしながらピアノの音がする場所へ向かう。

 先生の音色をもっと聴いていたいけれど、早く鶴丸先生に会いたい。

 いつもの部屋に入ると、ピアノの音はぴたりと止んだ。鍵盤を見ていた蜜色の瞳はぱちりと私を捉えた。

「こんにちは、鶴丸先生」
「こんにちは」

 鶴丸先生の薄い唇がゆるやかな弧を描いた。この甘い笑みに何度騙されただろう。ううん、たぶんこれからも分かっていて騙される。

 今日の鶴丸先生はくたびれた白いワイシャツに灰色のセーターを着ていた。シャツは第二ボタンまでは留めていなくて、鶴丸先生の白い鎖骨に目が行ってしまう。そっと鶴丸先生の胸元から目を逸らし、手提げバッグに入っている楽譜を取り出す。

 一週間頑張って練習した曲のことを考えて、鶴丸先生のことを頭から追い出す努力をする。ちゃんと曲に集中しないと、怒られてしまうし教えてくれる鶴丸先生にも失礼だから。

「お願いします」
「それじゃあ、この曲から弾いていこうか」

 鶴丸先生の声が耳朶を打つ。私は「はい」と舌足らずな返事をしてしまった。

 鍵盤にそっと触れ、楽譜を見る。小さく息を吸って、私は指の芯に力を入れる。


 練習中、鶴丸先生は静かに間違いを指摘してくれた。言われた通りに弾けると「うん、そうだ」と優しい声で褒めてくれる。私はそれが嬉しくて、先生の指を追いかける。
 一時間のレッスンはあっという間だった。

「今日はこれで終わりだな」

 鶴丸先生は次のレッスンの話をする。次のレッスンも土曜日。午後の五時。早鐘のようにどくんどくんと心臓を鳴らしてその話を聞く。

 レッスンが終わった途端、私は先生と二人きりだということを意識してしまう。

「――なぁ、聞いているのかい?」
「は、はい。ちゃんと練習します」
「ならいいんだが。そうだ、気になっていたんだが」

 鶴丸先生は突然私の手を握った。

「やっぱり手が冷たいな。最近は寒くなってきたからな。冷たいと指が動かし難いだろう」

 鶴丸先生の掌は温かかった。先生の熱が、寒さで固まった指をじわりと溶かしていく。

「……次からは、手袋をしてきます」
「そうした方がいいな」

 するりと鶴丸先生の指が離れる。なんだか魔法が消えるみたいに私の指先から熱が失われていった。

 先生の熱を逃さないように両手を握っていると、ぽつぽつと水音が聞こえてきた。耳を澄ませば雨音は次第に大きくなっていき、洋館のガラスを揺らすほどの風音もしてきた。突然の嵐にぼうっと窓の外を眺める。

「雨が降ってきたな。どうする? 傘、あるか?」
「傘は持ってきてないです」
「俺が車を持っていたら送ってやりたいんだがなぁ」

 先生の家から一番近いバス停は15分かかる。もし先生の傘を借りてバス停まで歩いても、雨風に打たれて全身ずぶ濡れになるだろう。

「わ、私、走って帰ります……!」

 これからきっと雨風は更に酷くなっていく予感があった。

「それだと君が風邪をひいてしまうかもしれないだろう。何か急ぎの用でもあるなら止めないが、ないならここで夕飯でも食べないか。その内、止むだろう」

 それなのに鶴丸先生は私を引き留めた。もし、止まなかったらどうなるんだろう。それを考えて、一人勝手に期待してしまう。

「いいんですか」
「ちょうど、夕飯を作りすぎて困っていたんだ」
「それなら……」

 私が鶴丸先生の誘いを断ることなんてできなかった。
 午後六時過ぎ。鶴丸先生に手招きされて、私は教室から出る。先生の広くて所々骨が浮き出ている背中を追いかけるように歩いた。


          ◇


 私と鶴丸先生が出会ったのは初夏だった。もう三年も前のことになる。その時私は就職して、一人暮らしをして、目まぐるしく変わる環境についていく事でいっぱいだった。

 身近な友達は日々の生活が充実しているようで、会えば新しく始めた趣味のことを話し始めた。朝早くに起きて仕事して、帰れば仕事の疲れで何もする気が起きずに食べて寝るだけの私とは大違い。二十歳も過ぎたというのに、彼氏がいたこともない。それは三年経った今も変わらずだけれど。


「それじゃあ仕事して食べて寝て〜の生活を繰り返してるの? 仕事、大変なのね」

 喫茶店で自分のことを話すと、友人は目を見開いた。

「う、うん。まだ慣れないみたい」
「そっかぁ。でも余裕ができたら趣味の一つくらいした方がいいかもよ? 何もしないまますぐに歳とるのも嫌じゃん。……というか月日経つのすごい早く感じるんだよね」

 そうだよ。だから焦って、焦って……でもどうすればいいか分からなくて時間が過ぎていく。このままではいけないという漠然とした思いしかない。

「あ、じゃあさピアノとかやってみたら? 小学生の頃、やってたじゃん」
「でも、私ピアノやめてから全然弾いてないから無理だよ」
「大丈夫だって、二十歳過ぎてからピアノ始める人も結構いるんだよ。……と、いうわけではいこれ」

 友人はカバンの中からチケットのようなものを差し出した。

「えっと……」
「実は来週の土曜日、ピアノの無料体験レッスンがあるのよ。ちょっと付き合いで行くように頼まれてたんだけどさ、その日仕事入っちゃって……もしよかったら、行ってくれない? 後で何かお詫びするから」

 私は「はぁ」と大きく息を吐き、チケットを受け取る。

「そうですね。どうせそういう理由ですよねー。本当に心配してくれているのかと思った」
「あああっごめんね! でも、心配はしてるよ? いつもとは違うことをやってみたら気分転換になるかなぁって……無理にとは言わないけど!」
「はいはい、行きますよ」
「わぁいありがとう!」

 習うつもりはないけれど、友人の為にも行くだけ行ってみよう。
 チケットに書かれているピアノ教室は、私の家からバスで20分。遠すぎない距離だった。

 そのピアノ教室の名前は『鶯ピアノ教室』。私はこのピアノ教室を知っている。けれど、その名前があまりにもダサくて記憶に残っているだけだった。無料体験レッスンができるくらいに通っている人はいるのか……いや、いないからすることになったのか……。段々不安になってきたので、私はチケットを鞄の中に仕舞い、友人とのティータイムを楽しむことにした。もう今更断れない。



 そうして訪れた土曜日。私は薄ピンクのワンピースに白い薄手のカーディガンを羽織り、『鶯ピアノ教室』の前にいた。

 『鶯ピアノ教室』の看板は筆で書き殴ったような字で、けれどもしかしたら見る人が違えば達筆で素晴らしい看板なのかもしれない。

 そんな渋い、まるで書道教室のような字の看板の端には可愛らしい鶯のイラストと音符のシールが貼られていた。小学生の悪戯なんじゃないかと思わなくもない。

 この看板のせいで、どうにもこのピアノ教室の名前が頭から離れない。そのピアノ教室に入る日が来るなんて。

 『鶯ピアノ教室』はビルの二階を借りているようだ。よく借りれたなぁ、なんて思ってしまう。私が細かいことを気にしすぎているのかもしれない。うん、きっとそう。白髪ですらりとした綺麗なお兄さんだって、真顔でビルの中に入って行ったんだもの。

 白髪の男性を追いかけるように、私もビルの中へと入った。コンクリートの階段を上り、2階に着くとお兄さんは見当たらなかった。

 かわりに、受付らしき場所には片目が髪で隠れた男の人がいた。抹茶色の髪で、猫のような目をしていた。私と目が合うと、微かに笑った。

「あの、体験レッスンがあるって聞いてきたんですけど」

 鞄の中にあるチケットを取り出した。彼はそのチケットを数秒、無言で眺めた。

「……ああ、そういえばそんなこともあったな」
「え」
「いや、すまない何でもない。ここから右に進んだ奥の部屋に行っていてくれないか。すぐに準備する」
「は、はい」

 やっぱり、帰ってもいいですか?
 なんて言いたくても、男の人は左の通路へすたすたと歩いて行ってしまった。

 私は言われたとおり、右の通路に進むことにした。
 『鶯ピアノ教室』のフロアは案外、普通でレッスン教室らしき個室がいくつもある。

 抹茶色の髪の男性が言っていた部屋が分からず私は首を傾げた。けれど足は止まらず、前へ前へとなんとなく進んでいく。
 ふわりと耳に入ったピアノの音に、私は息をのんだ。

 その音は、波紋のように広がり私の心をぐらつかせる。私の一番弱い部分を優しく撫でて閉じ込めてしまうような音色。誰が、これを奏でているのだろう。気になって私はその音を頼りに歩を進める。

 しばらくすると、僅かに扉が開いた部屋があった。部屋の窓ガラスにはフィルムがかかって中の様子がよく見えない。扉を開ける勇気はなかった。せめてこの曲が終わるまで聴いていようと、部屋の前で立ち尽くす。
 後ろからぽんと肩を叩かれた。

「ひゃっ」
「入らないのか?」

 振り返ればあの受付にいたお兄さんがいた。彼は最初に出会った時と全く同じ調子で話しかけた。盗み聞きをしようとした私に対して、何か思うところはないのだろうか。

「いえ、私は聴くだけで」

 気づけば、ピアノの音は止んでいた。部屋の扉が開く音が、してその場所を見れば白髪の中性的な顔立ちをしたお兄さんがいた。この『鶯ピアノ教室』の前で見かけた人だった。

 その男性は蜜色の瞳をだるそうに歪めていた。

「鶯丸、人を呼び出しておいて何をしているんだ」

 私の耳の奥がじんわりと震えた。なんて甘い声だろう、と小さく息を吐いた。

「ちょっと体験レッスンをしなければいけなくてな。鶴丸、人手が足りないんだ。このお嬢さんに体験レッスンをしてくれないか」
「えっ」

 鶯丸さんは、『このお嬢さん』の両肩を掴むと前へ押した。

「俺はここの先生でもなんでもないんだがな」
「まあそう言わずに。俺も困っているんだ」
「……そんな風には全く見えないんだが。まさかこの為に俺を呼び出したのか」
「細かいことはいいじゃないか」
「細かくない! 俺は人に教えたことなんてな――」
「というわけだ、お嬢さん。過去にピアノの経験はあるか」

 鶴丸さんの話も聞かずに、鶯丸さんは私に話を振った。

「えっと、小学生の時に二年間だけ。それ以降は全く弾いてないです」
「そうか。……そういうわけだ、鶴丸。基礎から教えてやってくれ、教材ならある」
「そういう問題じゃ」

 鶯丸さんは私と鶴丸さんを無理矢理教室に入れると、その教室内にある本棚から教本を数冊取り出し、鶴丸さんに手渡した。「じゃあ、一時間よろしく頼む」と言葉を残し颯爽と去ってしまった。
 自分でもどうしてこんなことになってしまったのか分からない。

「……よろしくお願いします」

 恐る恐る鶴丸さんに声をかけると、彼は「はぁ」とため息を吐いた。

「できる限り頑張るが……俺は誰かに教えたりしたことはないし、教わったこともほとんどない。独学みたいなものだ。君が真剣にピアノをしたいというなら、止めておいた方がいい。……俺と同じ癖がついてしまうかもしれない」

 それでもいいのか、と聞く鶴丸さんに私はこくんと頷いた。

「じゃあまずは、これなら弾けるか? 君が弾ける速さでいい」

 鶴丸さんはバイエルという教本を開き、ピアノの楽譜台に立てた。

「はい、これなら」

 指を鍵盤の上に置いて、数年ぶりにピアノに触れた。懐かしい感触、けれどたぶん私は上手に弾けない。それでも、自分の指で流れる音楽に私の心も弾んでいった。
 弾き終わり、鶴丸さんの言葉を待つ。

「うん。つっかえずに弾けるんだな。それじゃあ今度は、少し速めのテンポで弾いてみてくれ」

 鶯丸さんと話していた時より少し高めの声だった。

「それと、指に力を入れて……ああ、丸い物を掴むように。その状態で、優しく撫でるように……」

 言われた通り、私は指に力を入れて『ド』の音を鳴らした。さっきとは違うよく響くいい音が鳴った。ちらりと鶴丸さんを見ると、彼は薄い唇を少しだけほころばせていた。白い耳は不自然なくらいに赤くて、私は見てはいけないものを見てしまったような気がして、楽譜に視線を戻した。

「その調子で弾いてみてくれ」
「はい」

 鍵盤に触れると、最初に弾いた時とはまるで違い、するすると指が動いていった。なんだか自分の指ではないみたい。こんな風に私の指も動くものなのかと思いながら楽譜を読んだ。
 きっかけは友人の頼みだったけれど、私の胸はどくんどくんと心地よく高鳴っていた。


 キィ、と静かに扉が開く音がして私と鶴丸さんは扉に目が行った。
 入ってきたのは鶯丸さんだった。

「ん? 俺のことは気にせずに続けてくれて構わない」
「……いや、もう一時間経つだろう」

 部屋の時計を見ると、確かに一時間過ぎていた。

「用事は済んだだろう。俺はもう帰る。こういうことは止めてくれ、鶯丸」
「ん、ああこういう事では呼ばないさ。助かった」

 鶴丸さんは今日何度目かのため息を吐いた。

「あの、教えてくださってありがとうございました。分かりやすかったです」
「……それならよかったが」

 鶴丸さんはちらりと鶯丸さんを見た後、私に耳打ちした。

「もしピアノを習いたいならここは止めておいた方がいい。すこしおかしいからな。ここよりもいいピアノ教室はいくらでもある。君ならそっちの方がいいさ」
「は、はい……」

 返事をするので精いっぱいだった。
 鶴丸さんの甘い声が脳を溶かすように広がっていく。その麻薬のような、私を狂わせる唇が離れていく。

「俺はもう行かないからな」
「はいはい」

 鶴丸さんの姿が見えなくなっても、あの囁く声が耳から離れなかった。
 ぼんやりと立ったままでいる私に鶯丸さんが近寄る。

「どうだった、君がもしピアノに興味を持ったなら習って欲しいんだが。もし弾きたい曲があればそれを弾けるようにレッスンする」
「あ、あの私――」

 鶴丸さんの忠告を聞いていなかった訳ではない。けれどここでないと私が『弾きたい曲』は弾けない気がした。

 鶴丸さんが弾いていたあの曲。胸が張り裂けそうな、悲しくて優しい音色。許されるなら、もう一度鶴丸さんが弾いているところを聴きたい。それが駄目ならせめて……。

「鶴丸さんが弾いていた曲を弾けるようになりたいです」