4 新婚生活
 双方の親が乗り気だったこともあり、私と鶴丸さんの結婚はすぐに決まった。しかし結婚はよくても、挙式をすることだけは私が反対した。自分が白い衣装を来て人前に出るということが想像もできないし、したくない。
 結局、その場は鶴丸さんが収めた。挙式はいつでもできるから、私がしたくなった時にすればいいと言ってくれたのだ。おかげでウエディングドレスも白無垢も着ずに済んだのだ。後でこっそり鶴丸さんが写真だけでも撮るか? と言ってくれたけれど、それも遠慮した。私は本当にそういう物に興味がない。


 そうして結婚届を提出した後、私と鶴丸さんは一緒に暮らすこととなった。
 本は段ボールに詰めて、着ない服はほとんど捨てた。そして持っていく物のほとんどが本であることに、母はため息を吐いた。『これだけの本を読んでいる割に、文学少女らしい楚々とした女の子にならないのは何故なのか』は昔からよく言われた言葉だ。あなたの子供にそんな上品なお子様が産まれる訳がなかろうに。

 引っ越し作業は私の本を本棚に並べるだけなので、本を新しく住む家に運んでもらったその後は、私一人で作業した。腕と腰が痛くなりそうな作業を終えたのは6時過ぎだった。
 鶴丸さんがいるであろう一階に下りると、彼はキッチンで料理をしていた。

「荷物整理が長引いて、ごめんなさい。私も手伝います」
「今日はきみも疲れているだろう。ご飯は俺が作るさ。後は盛り付けるだけだ。きみは座って待っていてくれ」

 鶴丸さんが言ってくれなければ何をどう手伝えばいいのか分からない私は、従うしかなかった。椅子に座って鶴丸さんを盗み見ると、手元は見えないけれど彼が要領よくしていることが分かる。
 晩御飯はすぐにテーブルの上に並べられた。ご飯、味噌汁、鶏肉のトマト煮込み、ポテトサラダ。美味しそうなんだけども、美味しそうなんだけども。鶴丸さんの料理の腕が私よりもいいので、焦ってしまう。ちょっと私にはここまでできそうにない。

「美味しそうですね」
「ははっ、きみを驚かせたくて調べたんだ! 言っておくが、いつもこんなに作ることはできないからな。普段はカレー一品とか、野菜炒めとご飯だったりするからな」
「私もそんな感じです……」
「よかった、きみもか」

 私は心底ほっとした。でも今度、料理の本を買って勉強しておこう。

 私と鶴丸さんは一緒に「いただきます」をすると、私は鶏肉に手を伸ばした。一口食べると、その鶏肉の柔らかさに夢中で噛みしめる。味もしっかり染み込んでいて、ご飯が進んでしまう。悔しい。すごく美味しい。黙々と食べてしまう。ポテトサラダもほくほくして美味しいし、味噌汁は塩加減が私の好きな薄味で……朝から引っ越し作業をしていたのもあって、私は全品ぺろりと食べてしまった。どうしよう、お昼はおにぎり二つしか食べていないから、まだ食べられそう。

「はやいな」

 最後に冷たい麦茶を飲んでいると、鶴丸さんがぽかんとした顔をして私を見ていた。鶴丸さんの手元を見ると、まだ半分食べたくらいで、私は背筋がヒヤッとした。

「ちょっと、お腹が空いていたから」
「おかわりはいるかい? 実は作りすぎてしまったから、食べてくれるとありがたいんだが」
「……それなら食べます」

 そんな風に言われたら、食べるしかない。私はご飯をよそいで、一番美味しかった鶏肉のトマト煮込みをおかわりする。何度食べてもやっぱり美味しい。

「そういえば味噌汁の味、薄すぎたりしなかったかい」
「ちょうどよかった」
「そうか。それは良かった!」

 鶴丸さんはほっと息を吐いてから、静かに笑む。料理が上手くできて嬉しいのだろう。
 食事をし終えた私は食器を洗った。その隣に鶴丸さんがいて、洗い終わった食器を拭いている。

「後もう少しで湯が沸くはずだから、お風呂はきみが先に入ってくれて構わない」
「分かりました。洗濯物はどこに干してますか?」
「二階のベランダに普段は干してるな。それと、洗濯物は別々で洗うかい?」
「いいです、別に。面倒だから一緒に洗いましょう」
「……きみがいいならそうしよう」

 さっきの間は何だろう。その上、絞り出すような声だった。鶴丸さんを盗み見ると、まだ暑くなるような季節ではないのに、頬がほんのりと赤い。どうしてなのか聞こうとする時にはもう食器は全て洗い終わり「それじゃあ」と私達はわかれた。

 そしてお風呂から上がって部屋着用のワンピースを着て、一階の鶴丸さんに声をかけると、未だに彼の顔は赤かった。むしろさっきよりも赤みは増している。

「お風呂、終わりましたけど。鶴丸さん、顔が赤くないですか」
「気のせいだろう。それよりきみはいつまで俺のことを鶴丸と呼ぶんだ。もうきみも鶴丸だろう」
「家の中ならいいかなって」
「外で間違って言わないか?」
「……言うかもしれません」

 否定できなかった。そもそも、鶴丸さんの下の名前がすぐに思い出せない。間違う所か何と呼べばいいのか分からず、「あのー」と間抜けな声のかけ方をしてしまうだろう。

「じゃあ鶴丸さんは止めてくれ」
「分かりました」
「今、呼んでみてくれ」

 困った。後で調べればいいと思っていたら、今、呼んで欲しいと言われてしまった。鶴丸さんは真剣な顔で、まさか中学からの知り合いである私が下の名前を知らないとは思わないだろう。国がついていたのは覚えている。しかし、その後の言葉が思い浮かばない。国定か、国行か、いやどれも違うだろう。これ以上、無言でいることはできない私は誤魔化すことにした。

「……だぁりん」

 いっそ笑って欲しい。言ってしまうとすごく恥ずかしい呼び方だ。鶴丸さんのことだから、笑って流してくれるだろう。そう思ったのに、彼からの返事がない。私まで顔が赤くなってしまう。

「嫌ですよね?」
「……いや、別にいいさ。きみがそう言うなら、俺はハニーと呼ぶべきか」
「いいんですか!? 私は嫌ですよ!」
「ならどうしてダーリンとか言ったんだ、きみは」
「ダーリン!」
「嫌なんじゃなかったのか!」
「じゃあ私、部屋に戻ってごろごろするので、ダーリンは風呂に入って下さい」
「待ってくれ」

 後に引けなくなった私は、自棄になってダーリンを押し通し、鶴丸さんから逃げる。

「ハニー!」

 階段から部屋までは走って逃げた。


 部屋に戻っても顔の熱がなかなか引かなかった。ともかく、私は携帯のアドレス帳を確認して『鶴丸国永』の名前を見つける。国永、国永、国永。

「国永さん」

 声に出してみるとダーリンとは違った意味で、羞恥で体が熱くなる。今までずっと鶴丸さんと言っていたから、突然国永さんと呼ぶのが落ち着かない。
 そもそも名前を呼ぶこと自体が苦手だったりする。中学生なら男子のことは君付けで呼ぶ人がほとんどの中、私はどうしても君付けで呼ぶことができなかった。おかしいことは分かっている。けれど、君を付けて呼ぶのは男の人だと意識しているようで、どうしてもできなかった。それくらい私は名前を呼ぶということを難しく考えている。

 ――国永さん。

 ううん、やっぱりまだ名前呼びは慣れないなぁ。


     □


 翌朝、私は緊張のせいもあって普段よりも早く起きてしまった。これからは自分で弁当を作らなければならないのだから、むしろ調度いい時間なのかもしれない。昨晩は鶴丸さんが晩御飯を作ってくれたから、朝食は私が用意しよう。

 冷蔵庫の中を開けて確認すると、食パンがあったので朝食は洋食にする。普段ならトースト一枚で終わらせたいけれど、昨晩のこともあって私は二品だけ作ることにした。ゆで卵ときゅうりとトマトのサラダを作っていると、鶴丸さんがリビングに顔を出した。何だかまだ眠そうで、顔を手で覆いながら歩いている。

「おはよう……」
「おはよう。お弁当っていります?」

 自分の分だけ作るのもなんだかなぁ、と思った私は一応聞いてみた。

「お弁当……作ってくれるのか?」
「だって、昨晩残ったおかずにプラス何か簡単なもの作って入れるだけでしょ。どうせ同じなんだし、どうかなと思って」
「それでもいい、頼む!」

 鶴丸さんはパチリと目が覚めたみたいに、目を見開いて話した。

「う、うん、分かった」

 もしかすると、普段は弁当ではないのだろうか。まあ喜んでいるみたいだし、作っておこう。お弁当は昨晩のポテトサラダと鶏肉のトマト煮込みを入れて、キュウリの酢の物と、ご飯に鮭をふりかけて完成した。朝食を食べ終えてから鶴丸さんにお弁当を渡すと、彼は子供のように目を輝かせた。

「はい、お弁当」
「ありがとう。今日は朝からきみのご飯を食べることができて幸せだ」
「そんな大袈裟な」

 食パンとゆで卵とサラダだけ。大したものではない。たぶんまだ寝ぼけているのかもしれないけれど、たったこれだけのことで喜んでもらえて悪い気はしない。

「会社に行ってくる」

 鶴丸さんはスーツに着替えると、私より先に仕事に向かった。スーツ姿は意外と似合っていた。こういう時、鶴丸さんは本当に美形なのだと再確認させられる。滑らかな白い肌に猫っ毛の白髪、優しい蜜色の瞳の持ち主は、会社でもさぞ人気なのだろう。それに、ふわりと男らしい香りもする。何の匂いなのかは分からないけど、私も好きな香りだった。いや、鶴丸さんの匂いなんて嗅いでどうする私。

「いってらっしゃい。気を付けて」
「行ってくる」

 目を細めて家を出る鶴丸さんの姿を見ると、勘違いしそうになった。一瞬、私と鶴丸さんは本当の夫婦かと思ってしまう。実際はただの仮面夫婦なのに。
 ぱたり、と玄関のドアが閉まる。
 私も会社に行かなくてはいけない。幸い、実家より今住んでいる家の方が会社に近い。ゆっくり準備して、家を出る。

 今日は、会社に行くのが憂鬱だった。朝礼の時間に苗字が変わったことを伝えなくてはならない。それはつまり、会社の人全員に結婚したことを報告するということだ。正直に言って胃が痛い。他の女性社員とあまり交流のない私は、トイレでは結婚できないだろうと馬鹿にされていたから尚、言い辛い。彼女達の言っていることは同意できるし、それなのにこの結果をどう報告したものか。ああもう、苗字が変わらない鶴丸さんが羨ましい。彼は結婚したことを報告するのだろうか。