鶴丸さんと来たのは日本家屋だった。日当たりがよく、ぽかぽかとして温かそうな家。
「あの、鶴丸さんここって誰の家なんですか」
聞くと、鶴丸さんははにかんだ。
「俺の家で、きみの家にもなるかもしれない家だな」
「え、ええと」
どういえばいいか、言葉を詰まらせていると鶴丸さんは心配そうに私の顔を覗き見る。
「こういう家は好きじゃないのか?」
「好きですけど……」
「そうか、ならよかったぜ。中に入ろう」
ほっと息をすると、鶴丸さんは玄関のドアを開いてくれた。一歩、中に入ると白檀(びゃくだん)の香りが胸いっぱいに広がった。なんて優しい匂いだろう。鶴丸さんの匂いにも少し似ている。
「スリッパ……は今はないんだ。すまんな」
「大丈夫です」
靴を脱ぐと、私は鶴丸さんの後についていき廊下を歩いた。ぱた、ぱた、ぱた。足に馴染む温かい木の床。洋風の家も好きだけれど、こういう古い和風の家も私は好きだ。住む分には、後者の方がいいだろう。
それにしても、と思う。意外と、鶴丸さんと日本家屋というのも似合っている。顔を見る限り、洋風の建物の方が似合うとばかり思っていた。きっと、着物を着たらもっとに……ううん、私は何を考えているんだろう。
鶴丸さんに案内されたのは台所に居間、鶴丸さんの部屋。調理道具は既に一式揃えてあった。これは、本当に誰かと結婚しないといけないことになっているのだろう。しかし、まだ私と同じ歳の筈なのにどうしてこんなものを建てることができるのか。恐ろしくて聞こうとも思わない。
「後は二階だな。空部屋が二部屋と、後は書斎だな」
「書斎?」
思わず聞き返してしまった。鶴丸さんは階段を上りながら教えてくれる。
「書斎と言っても本の置き部屋みたいなもんだぜ? 今まで買った本が多くてな、そこに大体まとめてあるだけだ」
「そう」
中学の頃をふと思い出す。私が図書室の端の席やベランダの隅っこで本を読んでいる時に、鶴丸さんは隣に座り私の真似をするように本を読み始めていたことがよくあった。どうしてこうなったのか、具体的な所は当事者である私自身も分かっていない。私はただ、隣に座る鶴丸さんを避ける為に自分の好きな場所を離れたくなかっただけなのだから。話は脱線したけれど、鶴丸さんは今も読書家らしい。
二階の階段を上りきり、最初に案内されたのは空き部屋だった。和室と洋室だ。どちらも閑散として家具一つないが、広さはたぶん七畳半くらいだろうか。結構広い。
「きみがここに住むなら、どちらかの部屋を好きに使っていいぜ」
この人、どんだけ余裕があるのか。
「まあ住むことになれば。それで書斎は」
「ああ、それはこの奥だな」
二階の一番奥の部屋。鶴丸さんが扉が開いた瞬間、私は息を呑む。
壁一面、私の背よりも高い本棚が整然と並んでいた。分厚い本に薄めの専門資料の様な本。文庫本もたくさんあって、本の独特の匂いに、読書好きな私は胸が高鳴ってしまうのはもうどうしようもないことだ。
中に入って、どんな本があるのか確認したい衝動に駆られる。しかし、今まで全くもってどうでもよさそうな態度をとっていた私が目を輝かせて本に夢中になっていいのだろうか。もう少し興味のあるふりをするべきだった……。
「きみ、本好きだろう? 見てもいいんだぜ。といっても、きみはもう読んだことがある本しかないかもしれないがな」
「オッウ、ソウデスネ」
「……気になるのかい?」
鶴丸さんは悪戯っ子のような悪い笑みを浮かべ、覗き見る。肩にかかった銀髪はさらりと零れ落ち、色っぽく見えてしまう。
――いえ、別に。
などと、言えるわけがない。しかし負けず嫌いな私は「気になります」と言える筈もなく……。
「そう遠慮するな」
「うぁあっ」
手を掴まれ、私はなんとも情けない声を出しながら書斎に一歩踏み入れてしまった。一歩進めば、もう二歩目はこの誘惑に逆らえるわけもない。三歩、四歩、進み本棚を前にして放心状態の私に鶴丸さんは更に追い打ちをかける。
「これとかきみ、好きなんじゃないか」
本棚から本を取ると、鶴丸さんは私に見せた。それは私が読んだことのあるシリーズもので、最終巻だけ読めなかった本だ。理由はそれがだいぶ昔に出版されており、今は絶版でなかなか手に入らないからだ。書店や図書館、色々探したけれど結局見つからなくて諦めた本。それが今、目の前にある……。
「お、やっぱり読んだことあるのか」
思わず目を見開いてしまっていたからだろう。鶴丸さんは私の反応で察し、話を続けた。
「いいよなぁ。この本の最後は主人公が……」
「あーっあっあっ!」
まだ読んでいないというのに、鶴丸さんはあろうことか最終巻の内容を話始め、私は動揺のあまり声を出した。私の取り乱す様のどこが面白いのか、くすぐったそうに眉尻を下げて上品に笑う。
「読みたいなら貸すぜ?」
本を持たされ、言葉に詰まる。いいのだろうか、こんな貴重な本。
「きみなら大切に扱ってくれるだろうし、何よりこれを読んだきみの反応が見てみたいんでな。……それとも、もう興味ないか?」
ある。すごく、ある。ない訳がない。
けれど私は首を縦に振ることもできずにいた。それは、彼に対して失礼だ。すごく気になるけれど、返さないといけない。だって私と鶴丸さんはそんな貴重なものを貸し借りするほど仲がいい訳でもない。
「い、いいです……」
興味がない、と言えずに鶴丸さんに本を返そうとすると、彼は本を受け取ってくれない。ならば、元あった場所に戻そうとすれば鶴丸さんの手がそれを拒んだ。目を合わせると、鶴丸さんはにっと笑う。
「きみは意地っ張りだからなぁ。とりあえず、次会う時まで持っていてくれ。手元にあると気が変わるかもしれないだろう」
「でも……うっ、ちょっと」
頭をぐりぐりと乱暴に撫でられ、返すことができなくなる。これは私がどんなに言っても読むまで返させてくれないだろう。
「後はどうするかなぁ。見せたいものはこれで終わりなんだが」
思案するように呟くと、ピンポーンというインターフォンの音が鳴った。
「何だ、こんな時に。客か? ちょっとここで待っていてくれるかい」
「は、はい」
鶴丸さんはパタパタと急いで玄関へ向かって行った。残された私は、ふぅ、と息を吐く。どうしよう。今、この部屋には私一人だ。鶴丸さんの目を気にしないで本棚を隅々まで見るなら今しかない。
私はそろり、と忍ぶ必要もないのに足音を立てないように素早く歩き本棚を隅から隅まで見た。医学、心理学、歴史に料理本などの面白そうな専門書。文庫本は数が多く、私が気になっているけれど読んでいない本や、そもそも入手が困難なものまでちらほらと。宝庫……宝庫だ……。手に取ってしまえば最後、鶴丸さんが階段を上る音がしてもすぐには手が離せなくなるだろう。
そろそろ鶴丸さんが戻ってくるのではないか、と耳を澄ますが足音は聞こえない。様子が気になって書斎から一歩出ると、話し声が聞こえた。何か揉めているような声。それはこちらに近づいているようで……。
「それで、その子はどこにいるんですか!」
「関係ないだろう。勝手に入らないでくれ」
ドタドタドタ……。鶴丸さんを押してこの家に入ってきている人がいる風である。ここにいてはいけないとすぐに察した私は再び書斎に籠った。
鶴丸さんも大変だなぁ、と他人事のように考え、ともかく私は私を囲む誘惑からじっと耐えべきだろう。
「そっちは何もない!」
「あるかないかは私が決めます」
階段を上る音にハッとなる。こっちに来る気配に冷や汗が出そうだ。無理矢理入ってきた人は女性らしい。……彼女が探しているのは一体何なのか。隠れるべきだろうか、と考えるが隠れていても見つかるだろう。むしろ隠れている所を見つけられる方がややこしくなりそうだ。
そう考えた私はじっとして、女性が書斎に入ってくるのを待つことにした。
そして予想通り、書斎の扉は開かれた。
あ、これ、もしかして所謂修羅場というものではないだろうか、と気づいたのはその時だ。
入ってきたのは――白髪のお婆さんだった。その割に、声に張りがあった。
てっきり自分と同じくらいの女性だとばかり思っていた私は、どう反応すればいいか分からず棒立ちになる。
「あら、いるじゃない」
お婆さんは私を見るとにっこりと笑った。お婆さんと鶴丸さんの関係に確証が持てないので、そっと会釈をする。
「いるなら言いなさいよ、鶴丸」
「いっいや、そんなすぐに紹介するつもりは……」
珍しく、鶴丸さんは焦った様子。とにかく早く帰ってくれと言うばかり。女同士の修羅場ではないことに気付いた私は心の中でそっと息を吐く。
「ちゃんと結婚したい相手がいるならもっと自信を持って言えばいいのに。ごめんなさいね、ヘタレな孫で」
「う、うえっ!?」
お婆さんの言った言葉に顔が熱くなる。待って、やっぱりこれは不味いのではないだろうか、と考える。緊張で動悸が止まらない。
「落ち着いていてすごくいい子ね。それに鶴丸と一緒で本も好きなのね。……これで安心して入院できるわ」
「は、はぁ!?」
驚いて声を上げたのは鶴丸さんだった。
「どういうことだ、俺は聞いてないぜ」
「そうね、言ってないもの。一週間後には入院よ。もしものことがあったら怖いし、私が動ける内にあなたを結婚させたかったのよ」
「だからあんなお見合いを……」
「でもその必要はなかったみたいね」
鶴丸さんと同じ蜜色の瞳がこちらを向いて、ふふっと微笑んだ。色素は薄いけれど、とても優しい色をしている。冷たさや厳しさは全くない。
「――それで、二人はいつ結婚するの?」
う、と声に詰まる。するもなにもすると決まっていないのだから。
「いや、それは……」
鶴丸さんは言葉を濁す。言い辛いのは分かるけれど、ここははっきり言って欲しい。
「鶴丸には聞いてないわ。あなたよ」
「わ、私ですか」
「やっぱりすぐに結婚したいわよねぇ」
「え、えぇ?」
「ですって鶴丸。このお嬢さん逃がさないようにしっかり結婚するのよ?」
言質をとった、とお婆さんはにっこり笑う。あ、あぁ……違うさっきのは相槌であって同意ではないのに、話がどんどん進んでいく。なんて思い切りがいい行動力のあるお婆さんなんだ。入院前、ということもあるのってか、私はやや強引に言いくるめられていた。
……結婚したいわよね。
そう聞かれて、私はするつもりはないと即答するべきだったのに。その言葉が出なかった時点で、私の気持ちはある程度決まっていたのかもしれない……。
一通りお婆さんと話をし終わった頃には、まぁいいか、などと呑気なことを思っていた。私の僅かな元気を全てお婆さんに吸い取られた気分だったのだ。それは鶴丸さんも同じで、彼も酷く疲れた顔をしていた。喫茶店で会ったうきうき顔とは大違い。
「いいのか、本当に」
お婆さんが帰った後、鶴丸さんは再度私に聞いてくれた。
「うん、いいですよ」
今更断ることなどできないだろう。
鶴丸さんは眉尻を下げ、蜜色の瞳はどこか寂しげに揺れていた。どうして、そんな顔をするのか分からない。言い出したのは鶴丸さんなのに。
「それじゃあ、よろしく頼むぜ」
鶴丸さんが腕を差し出す。この時、私はとても自然に手を握ることができた。
「はい」
その手は私よりも大きくて骨張っていて、私のまるい手を優しく握ってくれる。それがすこしくすぐったい。
こんな利害だけの結婚なんて、鶴丸さんでなければ私は絶対にしないだろう。好きだとか愛しているとかそういう感情を鶴丸さんに対して抱いている訳ではないけれど。それでも、中学の頃どんなに突き放しても嫌な顔をせずに私の隣にいようとしたこの人なら、そうそう悪いことにはならない筈だから。
――この時の私は、鶴丸さんの魅力を軽く見ていた。今まで惚れなかったのだから、一緒に暮らした所でほどよくさめた関係を築けるだろうと考えていた。それがどれほど甘い考えだったか、私は後で痛いほど重い知る羽目にあう。