2 喫茶店のご飯
 朝食を食べ、食器を洗い終えた私は鶴丸さんを自分の部屋に押し入れた。私に押される鶴丸さんはどこか楽しそうで「ん? どうした、どこに行くんだ」などとおどけていた。この確信犯め。
 私の部屋に入るなり物珍しそうに、部屋を見渡し始める。しまった、脱ぎ捨てた衣類で部屋は散乱としている。
 部屋の中を見られたくなくて、私は鶴丸さんの腕を引いた。

「私まだ結婚の返事してないですよね?」
「ん、いや返事は貰ったぜ?」

 どうしてそんなことを聞くんだい、と鶴丸さんは首を傾げる。

「覚えがありません」
「そうかい。けどきみは『ちゃんと形だけの結婚になるなら受けます』って言ったんだがなぁ」

 鶴丸さんの嘘なのではないかと疑ったけれど、言っていてもおかしくないことではある。

「でも私があの時、相当酔っていたことくらい分かりますよね。そんな私が言った言葉、信用していいはずないでしょう」
「まあ、そうなんだが。俺としてはできるだけ早く結婚したいんだ」
「そんなこと言われても、こういうのはきちんと考えてから……」
「見合いの話が来ているんだ」

 鶴丸さんは僅かに眉を寄せた。
 彼もお見合いをするのか、と思うとどうしてか胸が痛い。こんなにいい人間なのだから、好きな人もその内見つかって結婚できるだろうに。選ぶことができると思っていた人間が選択できないことに私は何か思う所でもあるのだろうか。

「でもそうだな。返事を急かすのはよくないな」

 ふわり、と鶴丸さんは口元緩め、訳の分からない胸の痛みがすうっと消えていく。

「それできみ、今日はお休みかい?」
「はい。二日酔いする気満々だったので休みですけど」

 なんだそれは、と鶴丸さんは笑い出した。目尻に涙が薄ら見える。そこまで笑うことだろうか。

「それじゃあ、午後からでいい。俺に付き合ってくれないかい?」
「聞いてました? 私今、二日酔いなんですけど」
「ああ。外の空気を吸ったほうがいいだろうな」

 にっこりと頷く鶴丸さん。素敵な二日酔いデイを楽しむ為にも、何とか断らなければ。言葉を探しているとその隙に鶴丸さんは続けて言った。

「――それにな、きみ。俺が去ったら二日酔いだろうときみの母から質問攻めにされるんじゃないのか?」

 ……そうだった。こんな状態で家にずっといたら、母にしつこく話しかけられるに決まっている。楽しく二日酔いを楽しむことなんて到底できないだろう。吐き気があろうとあの母には関係ない。しかも今日、鶴丸さんと会った興奮で普段以上にしつこい予感。
 これは、出かけた方がいいだろう。外の空気はきっと美味しい。

 ……でもその元凶は鶴丸さん、あなたなんですけどね。



 出かけることが決まった私は、鶴丸さんを一旦帰らせ、口をピーチクパーチク開く母から逃げるようにお風呂に入った。湯船にも浸かり、体の隅々まで綺麗にした私は服を着替える。白いブラウスに春色のカーディガン。スカートにするかズボンにするか迷い、結局黒いスカートを履いた。
 時刻は朝の10時。待ち合わせの時間にはまだ余裕があるけれど、家でゆっくりなんてできそうにない。
 母に見つからない内にそっと家を出て、待ち合わせ場所の近くにある喫茶店に私は入った。膝毛(ひざげ)喫茶という。冗談みたいな名前。

 名前のことはさておき。このアンティーク風の喫茶店は前々から行ってみたいと思っていた場所で、沈んだ私の心も少しだけ軽くなる。深い緑と、木目の綺麗なテーブル。照明はほんのりオレンジ色で、BGMは心が切なくなるようなピアノの曲だった。

 窓際の席に座り、メニュー表と睨みっこする。目玉焼き付きのハンバーグに、グラタン、海鮮パスタ……どれも美味しそうで、デザートのページを見ればレアチーズケーキ、シフォンケーキ、ガトーショコラ、パフェ……ああ、私お昼ご飯を食べにきたのだけれど、デザートも気になってしまう。

「ご注文はお決まりでしょうか?」

 全く決まっていない。
 どうしよう、とおろおろしているとふふふ、と店員が微笑んだ。鶴丸さんとはまた違った意味で中性的な男の人だった。耳の下辺りでばっさり切られた髪、目は大きめで、鼻は高い。くっきりした顔立ちだ。

「決まってないなら、そうだね。今日のおすすめメニューでもいいんじゃないかい。もちろんデザート付だよ」
「それじゃあそれで!」

 私は目の前のメニュー表をぱっと閉じて、店員さんを見た。店員さんは上品に笑うと、かしこまりましたと言って厨房の方に入って行く。

「兄者! おすすめメニューとは何だ!」

 という厨房からの声にヒヤッとする。注文を聞いてくれた店員さんとは違う声。もしかすると、気を遣われてしまったのだろうか。

「おすすめを作ればいいんだよ」

 簡単だろう、とにっこり笑っている……様な気がした。
 結局、厨房にいる人は『おすすめメニュー』を作ってくれるらしい。心の中でそっと謝り、窓の外を眺める。
 喫茶店の前を通る人は、平日のお昼前ということもあってかあまり人がいない。そのままぼんやりと眺めていると、不意に目の前のガラスがトントン、とつつかれた。

「あ」

 突然現れたのは鶴丸さんだ。まだ待ち合わせ時間にはなっていない筈なのに。驚いていると、鶴丸さんは窓を過ぎ去り、喫茶店のドアに付いたベルがカランコロンと低い音を奏でた。

「よっ。きみもここに来たのか」

 鶴丸さんは喫茶店の照明よりも眩しい笑顔を私に向けると、当然のように私の目の前の席に座った。鶴丸さんの服装は朝とは違い、黒のゆるいTシャツに白のパーカーだった。――思えば、彼の私服をまともに見たのはこれが初めてかもしれない。口には出さないが、よく似合っている。
 じろじろ見てしまいそうなので、私は頬杖をついて外を眺めた。

「ご注文はお決まりでしょうか」

 私の注文を聞いてくれた店員さんの声に、私は顔を背けるのも悪いと思い店員さんを見る。

「ん、じゃあ彼女と一緒の物をくれ」

 メニュー表も見ずに答えた。私が何を頼んだかも知らないのに……。

「申し訳ありませんが、こちら売り切れになってます」
「……そんなわけないだろう。それなら……」

 不服そうな顔で鶴丸さんはメニュー表を開いた。二人は知り合いなのだろうか。店員さんはオーダー表に何かを書き始める。

「はい、じゃあいつもの目玉焼きハンバーグだね」
「あぁ、いつもはそうなんだが……待て、俺はまだ決めてな……」

 鶴丸さんが席を立った頃には既に店員さんは厨房に入ってしまっていた。追いかけてまで食べたいメニューもないのだろう。鶴丸さんは席に座り、ため息を吐いた。

「まあ仕方ないか。それできみは何を頼んだんだい? 売り切れになるほどの料理なら今度食べてみたいんだが」
「……さあ?」

 おすすめメニューなんて、本当は存在しないみたいだし、言わない方がいいだろう。厨房で無茶ぶりをされた人の為にも。

「さあってきみなぁ……」
「それより鶴丸さん、どうしてここに?」

 話を変えよう、と私はずっと疑問に思っていたことを聞くことにした。するとさっきまで沈んでいた瞳に光が入り、ぱぁっと顔が輝いた。

「俺もここで昼飯を食べようと思っていたんだ。まさかきみもここにいるとはなぁ」
「さいですか」
「なんてな、もしかすると家を早くに出たきみが待ち合わせ近くでご飯を食べてるんじゃないかって思っただけだ」

 そうなったのは誰のせいですか。

「それで、ご飯を食べたらどうするんですか」
「きみに見せたい場所があるんだ」
「どこに……」
「お待たせしました、おすすめメニューの、ええっとなんだっけ。デミーなんとかのオムライスです。デザートは後でお持ちしますね」

 いつの間にか隣には店員さんがいて、私は開きかけた口を閉じた。黄金に輝くふわふわとろとろの卵にかかったデミグラスソース。きのこ入り。ほかほかといい香りが私の鼻を通り、胃を刺激する。お腹がすいた。

「へぇ、こんな料理もあったのかい」
「本日限定ですので」
「……きみなぁ」

 鶴丸さんをさらりと交わすと、店員さんは私を見てクスリと笑い、去っていった。
 含みのある笑みだったが、そんなことよりも目の前のご飯だ。

「俺のご飯が来るまで待たなくていいぜ」

 もちろん、最初からそのつもり。

「わかりました。いただきます」

 ……しかし、食べ辛い。鶴丸さんは頬杖をついてじっと私が食べる姿を見ているからだ。私がスプーンでオムレツをすくう時とか、オムレツを口に入れる時とか何が面白いのかずっと見ているのだ。そんなに見られると、食べ方がおかしくないか気になるし、咀嚼する音が鶴丸さんに聞こえてしまっているかどうか、色々考えてしまう。

 まさか朝も、私は見られていたのだろうか。あの、寝ぼけた顔の私がパンをもさもさと食べている所を。
 思い返すと、見られていたような気がしてきた。耳だけがきゅうっと熱くなる。

「あの、鶴丸さん。あんまり見ないで」
「それはまた……どうしてだい」

 心底驚いた、とでも言いそうな顔だ。

「どうしてもなにも、そんなに見られたら食べ辛いです」
「きみが動いているところが珍しくてな、すまん」

 それは一体どういう意味か。まるで人をナマケモノのように。目で抗議すると、鶴丸さんは再度謝罪を口にし、露骨に私を見ることはなくなった。露骨には。

 その後、鶴丸さんの頼んだ目玉焼きハンバーグが運ばれ、私はその間デザートのガトーショコラをゆっくりと食べた。会計をして、喫茶店を出ると鶴丸さんは「こっちだ」と私の肩を軽く叩いて方向を教える。

 隣を歩く鶴丸さんの歩はゆったりとしていて、たぶん私の歩幅に合わせてくれていることが分かる。やっぱり女の人の扱いに慣れているんだなぁ、なんて思いながら私はもう少し速くても大丈夫、と歩くスピードを速めた。すると、鶴丸さんもそれに合わせてくれる。私相手に女扱いなんてしなくていいのだ。
 しばらく歩いていると、服が何かに引っかかったような感じがして、私は足を止める。よく見ると、私の服の裾を掴んだ鶴丸さんがいた。

「き、きみそんなに急がなくてもいいんだぜ?」
「急いでませんよ? これがいつも通りの速さですけど」
「もう少しゆっくり……だなぁ」

 ぽかぽかの日差しのせいか、鶴丸さんの頬は色づき始めた春のような色をしていた。
 彼の言葉をそのまま受け取ると、私の歩幅に合わせようとしてくれていた訳ではないらしい。そうか、私を女の人として扱った訳ではないのか。自分がそう望んでいた筈なのにいざそうなると、つまらない感情を抱いてしまいそうになる。それを振り払うように私は、鶴丸さんの手から逃れる。

「鶴丸さんのペースでいいですよ」
「……そうか。なら、もう少しゆっくり歩こうぜ」

 嬉しいような、泣きそうなような、曖昧な笑みを見せる鶴丸さんに、私はすこし冷たく突き放しすぎたかもしれないと反省する。胸がズキズキと痛むのは、きっと良心のせいだろう。