第二章
「どうしたんだい、まだ彼女は眠っているぜ? 俺が見ていてやるから、きみは彼らの様子でも見ていてくれ」

「……ええ、分かったわ」

 襖の外から聞こえる声で、審神者は覚醒した。夢は見ていない。とにかく真っ暗で何もなかったことだけは覚えている。お腹の下が痛い。私はまだ囚われているのか、と審神者は鬱々とした気持ちになった。

「お、ちょうど目が覚めたのかい? 開けてもいいか」

 鶴丸の声が聞こえた。腕を掴んだら気絶されたというのに、彼の声は存外明るい。審神者は少し逡巡し、ここは自分の本丸ではないのだということに気付いて、大丈夫だと伝える。

 すっと襖は開き、鶴丸は部屋に入る。ぴたり、と襖を閉め彼は審神者の隣で胡坐(あぐら)をかいた。

「悪かったな」

 何故、彼が謝っているのか審神者は分からない。むしろ、謝るのはこちらの方ではないのだろうか。きょとんした顔を浮かべると、鶴丸は何が面白いのか声を抑えて笑い始めた。

「分からないならいいさ。それよりも、今はここから出ることだ」

「どうして」

 審神者が首を傾げると、鶴丸は目を逸らした。

「できればきみにあまり関わって欲しくない」

「それじゃあ、あなたたちはどうなってしまうの。私を気遣うなんて。できる範囲のことなら……」

「いや、これは俺が始末すればいいだけのことだ。きみは帰ってくれ」

「始末って……」

「今は結界で入れないが、主の隙をついて地下に行くつもりだ」

 表情のない貌(かお)だった。鶴丸がなさんとしていることを、審神者は理解する。理解して、涙が出そうになった。

「だめよ、そんなの」

 そんなのは駄目だ。それでは、女性が刀解せずに彼らを救う方法を探している意味がない。きっと、何か方法がある筈だ。どうして鶴丸はそんなにも後ろ向きなのか。

「とにかく、手がかりを探しましょう。殺人衝動のある刀剣男士がどんな状態になっているのか、見ない事には――」

 とん、とん、とん、と廊下を歩く音がした。審神者も鶴丸も黙り、襖を見る。襖から女性らしい影が現れた。

「起きました? 鶴丸はそちらにいます?」

「は、はいもう大丈夫です。鶴丸さんもいます」

「入ってもいいでしょうか」

「どうぞ」

 ゆっくり襖が開かれる。女性は先ほどより幾分顔色はいい。

「よかった、大丈夫そうですね。急に倒れてしまったので驚きました」

「すみません。ちょっと貧血で……」

 しれっと嘘を吐き、審神者は体を起こした。

「もう平気です。地下に行きましょうか」

「まだ休まなくてもいいんですか?」

「大丈夫です」

「もし辛くなったらすぐに言って下さいね」

 今度こそ、審神者は地下へ向かう。審神者の後ろにいる鶴丸は不満そうな顔で、審神者を見つめていた。

 地下への入り口は本丸のちょうど真ん中に当たる部屋に存在した。部屋の畳をとると、そこには穴があり、下へと続く階段がある。暗すぎるその場所に背筋がひやりとした。

「……本丸に地下って、あるんですね。私の本丸にはなかったような」

「この本丸は元々、他の方が使っていたんです。今はもうその人はいないんですけど」

「いない?」

「前の審神者はどうやら酷い方だったみたいで、この本丸はブラック本丸と言われていたそうです。どういう意図でこの地下が作られたのかは分かりませんが、結界が張りやすいので使っているんです」

 ブラック本丸のことは審神者も聞いたことがある。歴史修正主義者を倒すために呼んだというのに、私利私欲の為に刀剣男士を扱い、無茶なことをさせたりする本丸だと。聞いていて、気分のいい話ではないので具体的な話を審神者は知らないが。

「……失礼ですが、もしかして鶴丸さん以外は前の本丸の刀剣男士なんでしょうか」

「いいえ、違います。前の本丸の刀剣男士はもういません。私が刀鍛をして仲間になってくれた刀剣達です」

「そうですか」

 それでは私から先に入りますね、と女性が階段を降りようとする。それを鶴丸が引き留める。

「主、俺も行く。結界を解いてくれないか」

「……鶴丸はここで待っていてください」

「主! 会わせてくれ、俺も……!」

 懇願するような声だった。思わず鶴丸を見ると、泣きそうな顔をしていた。それが、まるで親に取り残された子供のようで、行かせない方がいいと分かっているのに審神者は口を挟んでしまう。

「鶴丸さんも一緒にお願いします。鶴丸さんと比べて違う所が見つけられるかもしれませんから」

「……あなたがそういうのでしたら」

 地下への入り口張られていた透明な膜のようなものが、ぱりん、と音を立てて砕け散った。これが結界だったらしい。女性はその結界が張られていても自由に出入りができるので、刀剣男士のみが出入りできないようにしてあるのだろう。

「ありがとう……」

 まさか本当に入らせてくれるとは思っていなかったのか。鶴丸は呆けた顔でお礼を言った。そして二人が先に階段を下がるのを見て、はっとなり後をついていく。

 階段は土でできており、所々泥濘(ぬかるみ)があった。階段の端には石が置いてあり、ほんのりとオレンジ色に光っている。この本丸の霊脈を使っているようだ。その光を頼りに三人は降りていく。

 無事に降りると、扉がある。鉄でできた頑丈そうな扉だ。女性は懐から鍵を取り出した。ギギィと耳を塞ぎたくなるような音と共に扉は開かれた。

 審神者が最初に目にしたのは、檻だった。照明は中央にぶらさがる小さ目の電球が一つだけ。これではまるで牢屋だ。その中には人がいる。彼らは扉が開かれる音に反応し、一斉に顔を上げた。その瞳はどれも爛々としていて、審神者は悲鳴が出そうになるのを呑み込んだ。

「……ス」

 誰の声なのか分からないほどに、それは掠れていた。

「もう、やめて……ください。僕を、刀解してください!」

 弱々しく泣き出しそうな声だった。小さな男の子が泣きながら訴えている。白い髪に、愛らしいそばかす。手足は鉄の鎖で繋がれていた。女性は審神者と鶴丸を置いて、五虎退の元に駆け寄る。彼女もまた、泣きそうであった。

「五虎退くん……! ごめんね、ごめんね……すぐに元に戻れるように頑張るからね!」

「ヒッ……来ないで、来ないでください!」

「もう少しだから。もう少し耐えて、お願い!」

「やめて……嫌だ……僕は……ごめんなさい主様、ごめんなさい」

 五虎退は女性を見たくない、と拒絶するように顔を背けて震えていた。

「五虎退から離れなよ……! 近づくな、近づくな! 近づくくらいなら、刀解してよ! もう嫌だよ! こんなの嫌だ!」

 男性にしては高めの声。長い髪は少しぼさぼさで、目の下は赤く腫れ、濡れていた。華奢な身体だというのに、鉄の鎖を肌に食い込ませて前へ出た。

「乱ちゃんも、ごめんね……! 待ってて、必ず助けるから!」

「何が助けるだよ! 俺は絶対に許しませんから! 殺してやる! 殺させろ! もう嫌なんですよ! もう誰かが死ぬところなんて見たくない……!」

「ごめんなさい……鯰尾くん……お願い信じて……」

 一番大きな声を響かせているのは鯰尾だ。顔をぐちゃぐちゃにして泣き叫んでいた。女性を睨み、殺す、殺すと何度も言っている。

 そして鯰尾の隣の牢屋にいるのは白い布を被った山姥だった。彼は声を出さず、暗い表情で何かをぶつぶつと呟いているが、審神者の場所からは何を言っているのか聞き取れない。

 一番端の牢屋には三日月がいた。三日月は何も言わず、ただじっと女性を睨み……その視線が不意に移動する。地下室の出入り口を見ると、目を見開いた。形のいい眉を崩し、声を出さずに口を動かした。

『――■■■』

 しかし、審神者は三日月の口の動きを全く見ていなかった。地下室の異様な雰囲気に圧倒され、ここに来た目的が頭からすっかり抜け落ちていたのだ。

 ……それは鶴丸も同じで、彼は地下室には入らず、地面に座り込んで放心状態だった。一人だけ、殺人衝動が起きず、牢屋に入っていない刀剣男士。何も悪くない筈なのに、まるでこの空間で自分が一番罪深い刀剣男士の様だ。

 どれくらい地下室にいただろうか。女性が審神者と鶴丸の様子に気づき、悲しそうに笑んだ。

「ごめんなさい、ちょっと刺激が強すぎましたよね」

「いえ……すみません。私……」

「一度、外の空気を吸いに行きましょう。鶴丸も」

「ああ」

 女性に逆らうことはしなかった。ショックが大きすぎて、これ以上地下にいることはできない。審神者にはこの本丸に関わる覚悟が足りなかったのだ。

 牢屋からはまだ刀剣男士達の怨みのような声が聞こえている。その声を、女性は扉に鍵をして塞いだ。

 そこから、地上に戻るまで三人は無言だった。女性だけは入る時と変わらず、残り二人の顔は明らかに疲れている。階段を上りきり、日を浴びて審神者はほうっと小さく息を吐いた。

「すみません、何もできなくて……」

「いいえ、話を聞いてくださっただけでも嬉しいです。気にしないでください」

「主、彼女も疲れてる。俺が送ろう」

「ではお願いします」

 審神者と鶴丸が玄関へ向かい始めると、女性は地下への道に結界を張った。出入り口で落ちていた結界の結晶がキラキラと宙に浮き、元の形へと戻っていった。

「鶴丸さん、大丈夫ですか」

「こんな時に俺の心配かい?」

「だって、地下にいた刀剣男士はあなたの仲間なんですよね」

「ああ……参ったぜ。まさかあんなに変わっちまってるとは思わなかった。俺が最後に会った時はまだ苦しそうにもがいているだけだったんだがなぁ」

 鶴丸らしくない弱音。演練で出会う他の鶴丸を知っている審神者は、だからこそ自分も正直な気持ちを打ち上げようと思った。

「私も、参りました」

「そうか」

「――でも、また来ます。調べ物をしたら、またここに来ます」

「はっ……」

 鶴丸は笑おうとして、全く笑えなかった。桜色の薄い唇は震え、悲しんでいるようにも怒っているようにも見えた。

「君は、何を言ってるんだ。もう二度とここに関わるべきじゃない」

「だって、放っておけません。今動けるのはこの本丸の主と鶴丸さんだけじゃないですか。たった二人でどうにかできる問題ではありません」

「いいや、君が増えたところでたった三人だ」

「私の刀剣男士もいます。八人です!」

 二人はしばし睨み合い、折れたのは鶴丸だった。肺にある空気を全部吐くほどの盛大な溜息を吐きながら頭を抑えてしゃがんだ。

「……後悔しても、知らないぜ」

「しませんよ。むしろ、何もしないほうが私は後悔します」

「そう、だな。君はそういう人間だな……」

 そんな会話をしていると、玄関を出た。後は鳥居を潜るだけ。審神者は鶴丸に笑みを向け、さようならの挨拶をする。そして、鳥居を潜り――潜ろうとして、何かに当たった。

「あ、あれ?」

 審神者を阻むものは何も見えないというのに、鳥居を潜ることができない。恐る恐る手を伸ばすと、見えない何かに手が触れた。それ以上、手が前に行くことはない。

「なんで、結界が……?」