第四章
 目の前には結界があり、帰ることができない。鶴丸もこれには驚いた様子で、結界を張ったであろう鶴丸の主にもう一度会いに行こうとするも、彼女の姿は見えなかった。

「おかしいな……さっきまでいた筈なんだが」

 台所も、彼女の部屋も、いそうな場所を探すがどこにもいない。本丸内の足音は審神者と鶴丸のものしか聞こえず、審神者は焦った。本丸の刀剣男士はもうとっくに帰っているだろう。せめて何か連絡できる方法は、と考えて胸元の懐刀に触れようとする。

「……っ」

 ――しかし、固い感触がどこにもない。それどころか、同じく胸元に入れていた通信用の端末もなかった。

「どうしたんだ?」
「ねえ、鶴丸さん。私が胸元に仕舞っていた端末を知らない?」
「いや……知らないな。まさか、ないのか」

 そのまさかである。審神者は何度も身体の中を探っても見つからない。

「どうしよう」

 端末はこの本丸の通信機を使わせてもらえればそれで済むが、懐刀は別だ。あれは審神者にとってお守りのようなもので、不安な時に心を落ち着かせる為に触れていた物だった。こんな状況で、そのお守りがないのは彼女にとってとても心細い。

「この本丸に入る前はあったのか?」
「あった。ちゃんと確認したもの」
「なら落としたのかもしれないな。探してみよう」
「ごめんなさい」
「ほとんどきみの傍にい俺も気づかない俺も悪いさ。きみがいた場所を探してみよう」

 鶴丸は嫌な顔をせずに、審神者の前を歩き始める。最初は玄関、次に台所と、審神者が通った場所を順にして探すつもりらしい。だが、それでも見つからなかった。残った場所は本丸の地下のみだが、ここには結界が張ってあり入ることができない。歩く場所は泥濘んでいたので、落としても気づかない可能性は高かった。

「もしかして、全部地下に……?」
「何か地下であったのかもしれない」
「この本丸全体に結界を張るほどの?」

 本丸は異様なほどに静かで、落ち着いている。審神者は何かが起きているようには思えなかった。

「分からない。俺は役に立たないから、何も教えてもらえない」
「役に立たないって、どうして」
「俺以外の刀剣男士が地下に入った日、俺は何も知らずに本丸を一人で抜け出していたんだ」

 鶴丸はどこか遠くを見るような顔をした。彼の瞳は静かで、夜の闇にぽつんと浮かぶ月の様な色をしている。桜色の小さな唇は震え、泣きたいのに泣くことができない子どものようだった。審神者は涙も出ていない彼の目尻を拭ってやりたくなるほど、その表情に胸が痛んだ。

「それより、このまま探していても見つからないだろうし、夕飯を作ろう。ご飯の時間になれば、あなたの主も地下から出てくるかもしれない」

 審神者は鶴丸の事情に踏み込めなかった。

「きみは料理が得意なのかい?」

 強引に変えた会話を、鶴丸は不満そうな顔を一つも見せずに受け入れる。

「どうだろう。人並みなんじゃないかな。そういう鶴丸はどうなの」
「んん……俺も人並みだな」
「そっか」

 会話はあまり弾まず、すぐに終わった。これと言って中身のない会話を続けることができない。ぎこちないのは審神者が鶴丸に対して恐怖を抱いているだけではないだろう。鶴丸自身も、審神者に対して必要以上に気を遣っているからだ。

 食材は、審神者が持ってきた物資で作ることになった。冷蔵庫の中を見たものの、何の肉なのか分からない。葉物もあったが、それもまた審神者が知っている野菜ではなかった。どう料理していいのか悩んでしまう為、申し訳ないが新しい物資を使うしかなかったのだ。

 審神者は豚汁と焼き鮭を、鶴丸はご飯と小松菜とちくわの胡麻和えを作ることにした。人様の本丸で贅沢をする訳にもいかないので、具は少なめに。味は刀剣男士が好む薄味で、じゃがいもがとろとろに柔らかくなるまでしっかり火を通す。一時間後には、晩ご飯ができており、空の色は既に暗くなっていた。

 それでも本丸の主である審神者は未だ戻ってこないが、もうそこは触れずに二人は「いただきます」と夕ご飯を食べることにする。

 箸と食器の音、食べ物を咀嚼する音、火鉢の音が控えめに存在する食卓。テレビはあったが、壊れていた。何か話すべきなのかと、お互いタイミングを伺うが上手くいかない。

 微妙な空気が流れる中、二人は完食した。「ごちそうさまでした」と手を合わせて、二人で食器を洗う。

「きみが作った豚汁、美味しかった」

 捜し物を二人でしている時は会話も続いたが、今の鶴丸の言葉は少々ぶっきらぼうだった。

「私も小松菜美、甘くて食べやすかった」
「そうか、きみの口に合ってよかった」

 鶴丸はほっと息を吐く。下を向いて、手を泡だらけにして食器を洗っていく。

 審神者は隣で鶴丸が洗い終わった食器を拭いていた。

「この後、どうしよう。どうせ出られないし、今日は泊って行っても大丈夫かな」
「……ああ、悪い。何とか端末だけでも見つかればいいんだが」
「それなんだけど、あなたの主の部屋を探してもいい? 予備の端末があればそこから私の本丸に連絡することも、政府に連絡することもできるから」

 本人の許可もなく、物色するのはよくないことだが、今はそうも言っていられない。審神者は一度、刀剣男士達に何も言わずに一晩外で眠ってしまったことがあり、その時どれほど大変なことになっていたかを知っている。相当に心配をかけたので、もう次はしないと誓ったのだ。

「もし主と会えたら、俺から話そう」
「お願いします」

 鶴丸の主の部屋は、よく整頓されていた。机の上にはパソコン以外、何もなく、また本棚は本の高さが綺麗に揃えられている。パソコンを起動したものの、パスワードを要求され一度適当に入力すると、パソコンはシャットダウンする。何度やってみても、電源が切れてしまうので、パソコンは使えそうにない。机の中はどうだろうかと引き出しを開けるが、筆記用具が入っているくらいで後は何もない。失礼だが、女性らしさがなかった。本当にここは女性の部屋なのだろうかと審神者は本棚の本のタイトルを辿っていく。

 審神者の目の高さから上は人間の身体や、薬剤、麻薬に関する分厚い本がずらりと並んでいた。これは真新しい。一方、腰よりも低い位置にあるのは和食などの料理本、園芸などの本でこの辺りの棚は少し埃を被っている。その中には一つだけ、タイトルのない本があった。審神者はその本を何となくぺらぺらとめくり、本を閉じる。

「その本がどうした?」
「ううん、何かこの本丸の結界に関することが書かれてないかなって、思ったんだけど……違ったみたい。端末もないみたいだし、お風呂に入らせてもらってもいいかな」
「寝間着はええと……」

 鶴丸が審神者の箪笥を開くが、すぐに閉じた。開いた引き出しには長襦袢や下着の類いが仕舞われていたのだ。

「いや、俺が探すのはだめだな」
「そうだよね、あなたの主に話もしていないし」
「……少し大きいだろうが、俺のでもいいか」
「助かります」
「いいのか」

 鶴丸は驚いて目を見開いていた。断られると思っていたらしい。

「私、あなたのことは嫌いではないんです。失礼な態度をとってしまったけれど、それだけは信じて欲しい」

 審神者はずっと、罪悪感があった。

 本来の鶴丸国永は快活で人懐っこい刀剣男士なのだと、演練を通して知っている。審神者が倒れてから、鶴丸は審神者に触れようとして、慌てて手を引っ込めたことが何度かあった。一緒に料理を作っている時は特に、間違いで手が当たらないように注意していたのだ。それが分からないほど審神者は鈍感でもない。

「そうか」

 しかし、鶴丸の返答はたったのそれだけだった。

「俺の部屋にある浴衣を取りに行こう。この本丸の湯船はすごいぞ! なんと、露天風呂だ。ここの前の主が作ったらしくてな。よく温まるといい」

 無理をしたような明るい声。

 審神者の手は震えていた。これで信じて欲しいというのは難しい話だ。

 鶴丸から肌着と白地の浴衣、そして紐と身体を拭くタオルをもらった審神者はすぐにお風呂に入った。鶴丸の方は、覗くような者もいないだろうが念の為と脱衣所の前で番をしている。あんまり待たせるのは悪いと思った審神者はすぐに頭と身体を洗い、湯船につかり、ある程度身体が温まってきた所でお風呂から上がった。肌着も浴衣も鶴丸の物で、彼女は一瞬躊躇してから身につける。浴衣を折って裾を合わせ、紐でゆるく締めた。

 審神者が脱衣所から出ると、鶴丸は壁にもたれて待っていた。

「鶴丸さん、ありがとうございました」
「ん、もういいのか?」
「はい。温まりました。鶴丸さんも入りますか」
「うん……入ろうか。そうだ、俺が入っている間、髪を乾かすといい。脱衣所の隅に、ドライヤーがある」
「は、はい……」
「こっちだ」

 手招きをされて、審神者は再び脱衣所に入る。部屋の角には、ドライヤーと椅子がありそこで髪を乾かせるらしい。

「それじゃあ、俺は風呂に入ってくるから、ここで待っていてくれ」
「えっ、あの……っ!」

 審神者が振り返ると、鶴丸は既に着物を脱ぎ始めていた。真っ白な背中が見え、声にならない悲鳴を漏らし、すぐに壁に顔を向けるが、耳にはしっかりと着物が擦れる音が届いてしまう。

 審神者はすぐにドライヤーの電源を入れて髪を乾かし始めた。

 男の身体で、刀剣男士だとしても、ここまで恥じらいを捨てられるものなのだろうか。

 審神者は悶々とした気持ちで、温風を頭に当てた。



 鶴丸もお風呂から上がり、夜の十時を過ぎても鶴丸の主は姿を現さなかった。だというのに、鶴丸は審神者を置いて主を探しに行こうともせず、傍に居る。彼の様子は覇気がなく、何か考え事をしている風だった。

 色々と複雑な事情があるのは、審神者と鶴丸の雰囲気から察していたが、一日中コレに当てられると居心地が悪い。

 その上、審神者は暇だった。暇つぶしにもなる端末は手元になく、人様の本丸で好き勝手する訳にもいかない。

 ――よし、寝よう。

 起きて何かをするという選択をすっぱり諦め、審神者は用意してもらった布団を広げる。

「もう寝るのか」
「寝正月だったから久しぶりに外から出て、疲れたみたい」
「きみがか」
「私の刀剣男士はなんやかんや過保護だからね。一人で出歩きたくても、誰かが着いてくる。だから外出し辛いの」
「嫌なのかい?」
「嫌ではないよ。むしろ嬉しいし、ほっとする。でも、申し訳ないなって思う。……じゃあ私、そろそろ寝ますね。鶴丸さんはどうします?」
「俺も寝るかな。……隣の部屋にいるから、何かあれば声をかけてくれ。あ、いや、そうではなくて、隣の部屋にいてもいいか?」
「それは、もちろん――」

 鶴丸と目が合って、審神者はぎこちない笑みを浮かべた。釣られて、鶴丸も口の端を持ち上げる。

「は、はは」
「あはは」

 そして二人はすぐに視線を逸らした。

「おやすみなさい」
「おやすみ」

 審神者は鶴丸が障子を閉める音を聞いてから、彼が出て行った場所を見て、溜息を吐く。

 ――完全に、嫌われた。
 ――たくさん気を遣ってもらっているのに、私はずっと怯えていた。
 ――鶴丸さんのこと、嫌いじゃないのに。

 審神者はもう一度、大きく溜息を吐いた。

 明日はもう少し上手に話せるだろうか、いや、むしろ今は寝ずに鶴丸さんと会話をするべきだったのではないかと後になって考えるが、自分から障子を開けることも、名前を呼ぶ勇気もなかった。

 彼女は電気を消して、鶴丸のいる部屋に背を向けて目を瞑る。どれほど耳を澄ましても、隣の部屋からは物音一つしなかった。おかげで睡眠が捗る……ということもなく、眠気が全く来ない審神者は、目を瞑ってから二時間も無駄に時間を消費してしまう。

 もしかすると、今日はこのまま一日眠れないかもしれない。そう予感した矢先のことだった。

『……シ……』

 風の様な音だった。

『…………マ……テ』

 風の様な音だと思った。

『……ヲ……サ…………』

 しかし女の声だった。
 審神者の声ではない。審神者は身動き一つせず、寝たふりをした。その音が去ることを心の底から願っていた。

 しかし、女の声は徐々に大きくなり、

「目を覚まして!」
「――ひッ」

 突然、耳元で声がして、審神者は跳ね起きた。

 布団を抱きしめて、声がした方を見ると、女がだらんと両手を下げて立っている。

 真っ黒な瞳が、じっと審神者を見つめたまま、障子の方に指を指す。そこは縁側の方だ。

 女がまた口を開く。しかし、審神者はもうそれどころではなかった。

 今日の月は一段と明るかったからだろう。

 ――だから審神者は、障子の向こう側にナニかがいることを知ってしまったのだ。