あねもね

3 喧嘩と仲直り

 引越しをして三カ月。私が家具の配送時間を間違えたこと以外、それほど大きな問題もなく日々は過ぎていった。

 私は社会人。国永は大学生。

 帰宅時間は違うけれど、私と国永は朝ごはんと夕ご飯は大体いつも一緒に食べていた。
 そのときに少しずつだけど、国永は自分のことを話してくれる。私はそれが嬉しくてつい料理の品数を増やしてしまう。「姉さんの料理はおいしいな」といって微笑みながら食べてくれるから。


 ――けれど、そんな生活はいつまでも続かなかった。


 会社の休憩中、私は今まで経験したことがない出来事に遭った。家に帰っても私は落ち着けず、国永といるというのに上の空になってしまう。

「どうしたんだ、姉さん」

 私があまりにもそわそわしていたのか、国永がきいてきた。
 こんなことを国永に相談していいのだろうか、と思ったけれど黙っておきたくなくて私は口を開く。

「……ねえ、国永。私ね、会社の人に告白されたの」

 思い切って、言ってみると国永は固まっていた。

「ごめん、急にこんな話。でも国永ってかっこいいから女の子によく告白されてるかなって……だからどうすればいいか教えて欲しくて。ほら、私はもてないから……」
「……姉さんは、そんな風に俺のことを思っていたんだな」

 国永の声は震えていた。

「国永?」
「姉さんの好きにすればいいだろう!」
「くにな……」
「今日は外で食べる。夕飯はいらない」

 何がどうしてそうなったのかわからなかった。
 国永は私を見ずに、適当な上着を着るとさっさと家から出て行ってしまった。私の言葉なんて聞きたくないと全身で拒絶され、私はどうすればいいか分からない。

 調理台には切っただけの野菜があった。量は二人分。今日は二人でカレーを食べようと話したのに。

「……」

 目が熱くなる。涙が溢れて、頬が濡れた。息はし難く、胸は張り裂けそうなほど痛い。
 泣いてはいけないと思うのに、頭の中を整頓すればするほど何が起こったのか理解してしまい涙を止められなくなってしまう。

 どうしよう。

 やっと仲良くなれたと思ったのに。

「くに……なが……っ……」

 私、国永に嫌われちゃったんだ。

 頭の中でそっと呟くと大粒の涙がぼろぼろと流れて、私は手で顔を覆った。

 相談なんて、するんじゃなかった。だって私は国永の姉だもの。弟に甘えるなんてどうかしていた。それに、自分が告白されたことを報告するのもおかしいよね。そんなことを聞かされたって困るだけだ。

 ……また、仲の悪い姉弟になってしまうのかな。


     …


「姉さん……起きてくれ……姉さん」
「……ん」
「寝るならベッドで寝てくれ」
「国永……?」

 机に突っ伏した頭を上げると国永がいて、私の顔を見ると、目を見開いた。

「姉さん……泣いて」
「ち、ちがっ、違うの国永。寝たせいで目が赤いだけ」

 国永が帰ってきたのかと思うと安心してまた涙腺が緩んでしまう。笑って誤魔化すと、国永は顔をしかめた。

「……晩御飯は食べたのか?」
「食べたよ」
「何を」
「カレー……」
「台所にあるのは、まだ作りかけみたいだったぜ? 姉さん、食べてないな」
「……あ」

 私は国永が出ていった後、涙が止まらなくて料理する気力はなかった。でも国永が帰ってくるのを待っていたくて、私は食べずに待っていた。……のに、なぜか眠ってしまい時計を見ると日付はとうに変わっていた。
 そんな私に、国永はため息を吐いた。

「ちゃんと食べてくれ……いや、これは俺のせいか」
「なんで、国永は何も悪くなんて」
「俺が姉さんを困らせるようなことをしたからだ」
「違う、私が……国永に私の事知ってほしいなんて思ったから……」
「姉さんはどうしてそういう恥ずかしいことを真面目に言うんだ」
「国永、顔赤い……」
「見ないでくれ」

 頬を赤くした国永は私の目を手で覆った。これでは国永が見れない。

「俺だって、言いたかったさ」
「国永?」

 私の目を覆う手を外そうと掴むけれど、びくともしなかった。

「どうして隠すの? ねえ国永、私に言いたいことがあるなら……遠慮なく言って。私、国永のお姉さんだもの。駄目なところがあったら直したいし、頼ってほしい」
「言えるわけ……」

 首の後ろに何かが触れる。前触れもなくきたその感触に私の肩はびくりとはねた。

「んっ……」

 椅子に座ったままの私を国永は後ろから抱きしめる。首や肩に国永の髪があたってくすぐったい。

「くに……」
「……姉さん、汗かいてるな」
「なっ」

 一気に体が熱くなり、私は絶句した。
 離れようと体を動かすと、体は案外簡単に解放された。国永から距離をとって見ると彼の顔はもう赤くなくて、にやにやと意地の悪い笑みを浮かべていた。反対に、私の顔は真っ赤だ。自分でもわかる。
 ……夏が近く、湿気のある季節にエアコンもつけずに寝ていた私の体は臭うだろう。

「お、お風呂入る!」
「そうしてくれ。その間に姉さんのご飯を作っておくよ。こんな時間だがすこしでも食べておいたほうがいい」
「うっ……ありがとう」

 素早く部屋に戻り、着替えの服とバスタオルをとって浴場に行く。
 そうしてシャワーを浴び終わった頃になって私は国永に、はぐらかされてしまったことに気づく。
 話の続きをしようとするが、国永は既にカレーを完成させていた。私と入れ替わりでお風呂に入ってしまう。

 ドライヤーで髪を乾かした後、私は国永が途中から作ってくれたカレーをすこし食べる。引越し初日よりも、国永の料理の腕は成長していた。器用な弟、というのは嬉しいけれど寂しくもある。

「姉さん、もう食べたのか」

 お風呂から上がった国永が、タオルで髪を拭きながら私に話しかけた。

「うん。美味しかった、ありがとう」
「俺は煮込んだだけだぜ」
「それでも、嬉しいよ。ね、ねえそれで国永は私にしてほしいこととかある?」
「どうしたんだ急に」
「お、おわび……カレーも作ってくれたし、私ばっかり国永に助けてもらってる」
「そんなことないだろ。とにかく姉さんは寝てくれ」

 自分の部屋に戻ろうとする国永の腕に私はしがみつく。国永の顔をのぞき見ると、顔を背けてしまった。

「く、国永……私じゃ頼りない?」

 やっぱりまだ、仲直りなんてできていないのだろうかと不安になっていると国永はぼそっと何かを言った。

「――たい」
「えっ?」

 何を言ったのか聞き取れない。国永はお風呂上がりのせいか、顔が赤くなっていた。

「国永?」
「あー……それじゃあ髪を乾かしてくれないか」
「そんなので、いいの?」
「い……いい、じゃあ何もしなくていいぜ」
「やる、やるから髪乾かす!」

 私は国永の部屋に入り、ドライヤーを手に取る。
 国永は「頼む」と言って、私の目の前に背を向けて座った。

 ドライヤーのスイッチを入れて、国永の濡れた髪を触る。指を絡ませても細くてさらさらと指から離れていく。指の腹で触れた鶴丸の頭皮も柔らかかった。

「なあ姉さん!」
「んー?」

 声を張り上げて、国永が私を呼んだ。
 どうしたのだろうと国永の髪を乾かしながら聞き耳をたてるけれど、また聞き取れなかった。何かを言った気はするのに。

「ねえ国永、聞こえないー!」
「いや、やっぱりいい!」

 何を言ったのか問い詰めたいけれど、やめておこう。もっと国永と仲が良くなればいつかきっと話してくれる。その日を待とうと思った。

「国永大好き」
「……何か言ったかー?」
「何も言ってないよ!」

 国永の髪はすぐに乾いた。すこし名残惜しいと思いながら、ドライヤーを切る。

「ありがとう姉さん」
「ううん、これくらいなんでもないよ。でもほんとうに髪を乾かすだけでよかったの?」
「ああ。癖になりそうなくらいよかったぜ?」

 ただ髪を乾かしただけなのに、国永は嬉しそうに笑った。
 これで仲直りだ、と言うように。