あねもね

1 引っ越し

「うーん、どうしようかしら」

 リビングにはチラシを見ながら呟く母がいた。

「どうかしたの?」

 母の後ろからそのチラシを見ると、アパートやマンションのチラシだった。

「ねえ雪乃、あなた就職したら白生出町(しらいでちょう)に住むのよね?」
「うん、そうだけど」
「雪乃がよかったら、国永と一緒に住んでくれない? あの子、料理なんてほとんどしたことないし、一人暮らしなんてさせたらガリガリに痩せちゃうわ」
「え……」

 そういえば私が就職する会社と国永の通う大学は同じ町だった。実家から通うには車で3時間以上かかる距離だから、私は一人暮らしをすることになっていたけれど国永もなのか。

「お願い、家賃と生活費半分払うから……!」
「ああうん、いいけど……」
「よかったー」
「いいわけないだろう」

 国永がひきつった笑みを浮かべて、リビングに入ってきた。
 一体どこから聞いていたのだろう。

「生活費は自分でバイトする。家賃もできるだけバイトで……」
「そんなの無茶よ。何のために大学に行くの。無理なバイトは止めて勉強に専念しないさい。それに二人とも一度に家を出ちゃうんだもの、心配なの」
「うっ……近い大学にしなかったのは悪いと思っている。だが」
「あーお母さん悲しいなあー」

 国永が話そうとすれば、母は口を開いて悲しい、ちゃんと勉強してほしい、心配だと言って話を遮った。
 そんなやりとりが数分続き、とうとう国永が折れた。

「……わかった、一緒に暮らせばいいんだろう」

 国永は大きくため息を吐く。
 これ以上話しても仕方がないと判断したのか、さっさとリビングから出て行ってしまった。
 母は「これで安心だわ」と再びチラシに目線を移す。相変わらず押しが強い……。
 私は国永のことが気になって追いかけた。
 階段を上った二階の部屋の前に国永はいて、私は声をかける。

「国永」

 国永は黙って振り返った。

「ごめんね、国永。姉と一緒に暮らすなんて嫌だよね? 私、できるだけ干渉しないようにするから」
「いや、別に……」
「話しかけたりしないようにするから! それが言いたかったの。じゃあ」

 久しぶりに二人きりで話した気がする。国永とは、国永が中学生になった辺りから段々と話す回数が減っており、最近は一度も会話をしない日ができてしまうほどだった。それに話をしたとてしても、母を間にはさんで会話する程度だ。
 だから私は早口で話し終え、走って自分の部屋へ逃げた。「おい」と私を呼び止める声が聞こえた気がするが気のせいだろう。でも、私は緊張で胸がいっぱいだった。
 部屋に鍵をかけると、私はその場にずるずると倒れる。

(……目が、あった)

 私が話しかけたとき、国永と目があった。目も合わせてくれないことが多かったのに。
 それだけでも私は嬉しくて、顔が熱くなる。
 
 私って本当に駄目な姉だ。だって、弟にちょっと相手にされただけでこんなに嬉しい。弟はもうとっくに姉離れしているのに。


     *


 そして、とうとう引越しの日になった。

 住む場所は、国永はどこでもいいと言うので私と両親で2DKのマンションに決めた。
 私も鶴丸も荷物はあまりなく、私の家具以外はすぐに終わった。まさかこんなに早く終わるとは思わなくて、私は家具の配達時間を夕方にしてしまっていた。水道もガスも通り、待つ以外何もすることがないので私は両親に家具のことを話し、両親は帰ることになった。

 ……だというのに、夕方の六時になってもインターホンは鳴らない。単に遅れているだけだろうと考え、私は夕飯を作ることにした。
 さすがに引越し初日で豪華なものは作れないので、ご飯とみそ汁と適当に煮物を作る。

「……すまない、一人で作らせてしまったな」

 背後には部屋に籠っていたはずの国永がいた。

「え、いいよ。これくらい!」
「いや手伝う。何をすればいい」
「じゃあ味噌汁お願い。あとは味噌をとかすだけなんだけど」
「わかった」

 一緒に暮らすとしても話しかけられることなんてほとんどないだろうと思っていたから私は胸がドキドキした。
 思わず頼んでしまったけれど、料理なんてほとんどしたことがない国永に任せてしまってよかったのだろうか。

 私はそっと隣の国永を盗み見る。
 味噌とおたまをもって、沸騰している鍋を見ていた。
 国永は少量の味噌をおたまですくって、鍋に入れ溶かしていく。

 やり方はあっているんだけれど……
 まあ、国永は国永でゆっくり作るだろう。味噌の溶かし方がわからないわけではないのだ。
 安心した私はご飯をよそって、かぼちゃの煮つけの味見をする。ふうふう、と息を吐いてパクリ。甘くて美味しい。これなら夕ご飯は食べられるだろう。

「なあ、俺も味見していいか」
「いいよ」
「悪い、手が空いてなくて口に入れてくれないか」
「う、うん」

 小さめのカボチャを箸でとり、息を吹きかけて国永が火傷しないようにする。
 国永は猫舌だったから。……今もそうなのかはわからないけれど。

「はい」

 口元にかぼちゃを近づけると、国永は「ん」と言ってかぼちゃを食べた。

「……美味しい」
「そ、そっか。よかった」

 嬉しくて、私はつい笑顔になってしまう。こんな些細なことで喜んでいるなんて知られたら嫌がられるかもしれない。

「国永、私ちょっと部屋に忘れ物があったから。とってくるね」
「ああ」

 部屋に入り私は頭をかかえた。
 ああもう耳まで赤くなった。身内から見ても、国永はカッコいい。本当に私の弟なんだろうかって思うくらいにカッコいい。弟なんだからこんなにドキドキする必要なんてないのに。
 でもこれから二人で暮らすんだ。これくらいで顔を赤くして部屋に籠ってしまっていては、弟との溝がさらに深くなってしまう。

 顔の赤みがとれると、私は再びキッチンに向かった。
 すると、焦ったような顔をした国永がいた。

「どうかしたの?」
「あ、いやすまない。味が濃ゆくなってしまった……これは俺が飲む。姉さんの味噌汁は一から作り直す」

 『姉さん』なんて、初めて言われた。
 昔は『おねーちゃん』だったのに……。
 ああまただ、胸が苦しくなる。

「いいよ、国永。私も国永が飲む味噌汁を飲むよ」
「だがこれはしょっぱくて……とても人が飲むものでは」
「おにぎりと一緒に食べれば大丈夫。ね、食べてもいいよね?」
「……姉さんがそういうなら」
「じゃあ晩御飯食べようか、国永はどうする? 部屋で食べる?」

 国永は何かを言おうとして、口を閉ざした。

「……俺もここで食べる」
「一緒に、食べてもいい?」
「いいに決まっているだろう」
「よかった……」

 二人で向かい合って座って、ご飯を食べる。
 国永が作った味噌汁は確かにとてもしょっぱい。だけど、国永が作った味噌汁なのだと思うと嬉しくて、味なんて気にならなかった。

 私はそのとき、幸せのあまり涙が出そうだった。
 家事は全部私がするのだと思っていたし、ご飯も一緒に食べたりしないんだろうなぁって思っていたから。


 ……そうして夕飯を食べ終え、食器を洗い終わっても、家具の配送業者は訪れなかった。