溶けるチョコと溶けない恋

 まだ寒い2月の始め。

 鶴丸さんは教室に入る私に気付くと、こちらに向かって歩いてきた。童顔な彼の顔はキラキラと輝いている。なにかいいことでもあったのだろうか。

「おはよう。来週はバレンタインだな!」
「おはようございます、そうですね」

 爽やかな鶴丸さんの声とは反対に、私はいつも通りにそっけない返事をして、彼の横を素通りする。いつもならそれで終わるのに、今日はどういう訳か私の進路を塞いできた。

「な、なあ! モテない男の為にチョコをくれないか?」
「何を言ってるんですか。鶴丸さんモテるでしょう」
「それじゃあきみはくれるのか?」
「いや、それは……」

 確かに、あげるつもりはないけれど。
 鶴丸さんは自信なさそうに整った眉を歪ませ、蜜色の瞳を悲しそうに鈍く光らせてこちらを見る。小動物のような弱々しい仕草に、どう答えようか迷ってしまう。

「ほらな。だからきみからくれないか?」
「え、いやどうしてそうなるんですか。他の人から貰えますって」
「貰えなかったらどうする。な、絶対にくれ。お返しならちゃんとする」
「……そうまでして欲しいですか」
「ああ、欲しいさ」

 目を細めて鶴丸さんは笑う。童顔なのに、大人っぽい顔だった。言っていることは子供らしいけれど。

 彼があまりにも必死にチョコをねだるので、私は「わかった」と言わざるを得なかった。何より、クラスの女の子の目が痛い。

「楽しみにしているぜ」

 満足のいく返事を貰えた鶴丸さんはほっと息を吐き、はにかんだ。その顔はひまわりのようで、私には眩しすぎる。


 そうしてバレンタイン前日、私はショッピングモールのバレンタインコーナーにいた。大勢の女の子がチョコを選んでいて、若干帰りたくなるけれどここは我慢してチョコを買うことにする。

 でないとこの寒い中、休日にわざわざ買いに出かけた意味がないし、約束を破る訳にもいかない。

 私が渡すのはもちろん、市販のチョコだ。決して手作りのチョコではない。
 鶴丸さんにチョコが欲しいとねだられたから仕方なく買いに来たのだ。本命ではない。

 ……まったく、何がモテない男なのか。

 鶴丸さんの言葉を思い出し、私はそっと眉を崩した。

 彼の容姿は飛びぬけて整っていた。白色の猫毛に甘い蜜色の瞳。雪の様に白い肌はきめ細かく、そこら辺の女の子より綺麗だった。

 一見儚く病弱に見えるが、とても快活で、クラスの中心的人物で、真面目で成績もいい。その上、男女関係なく優しくて、鶴丸さんに好意を寄せている人は多いだろう。

 ――私は、どうなのか。

 ふと、考えてしまう。鶴丸さんを好きだと思ったことはない。けれど、彼と関わったら嫌でも好きになってしまう予感はある。だからできるだけ関わらないように、関わらないように、と思っているのにどうにも捕まってしまう。

 会話は対したことじゃない。今日は雨だなぁ、とか宿題はどうだったとか、そんな挨拶のようなもの。彼にとっては話した内にも入らないだろう。

 なのでもしかすると鶴丸さんは他の人にもチョコが欲しいと言っているかもしれない。もしうるさくねだられるようなら黙らせる為に渡した方がいいだろうし……。

 そんなことを考えて私は白い包装のトリュフを購入する。男の子に初めてチョコを買うというのに、私の気持ちは憂鬱だった。考えなくてもいいことを考えてしまう。

 鶴丸さんがいない場所で、鶴丸さんのことを考えると胸がむかむかした。これは、彼があまりにも人といて出来すぎているせいだろう。


         …


 とうとうバレンタインの日が来てしまった。

 私のカバンの中には昨日買ったバレンタインチョコがある。これを渡せば全て終わる。

 教室に入ると、やっぱり鶴丸さんは私に気付き近づいてきた。予想していた展開に、胸の前で拳を作り気構える。

「おはよう。今日も寒いな、そうだ昨日出た宿題は……」
「ちゃんとやってます」
「はは、そうかい。あれは大変だったよなぁ」
「うん」

 そこで、「鶴丸くーん」と他の女子から声がかかった。鶴丸さんは「それじゃあな」と言って呼ばれた女子の元に行っていく。

 あ、あれ?

 思っていたより鶴丸さんはいつも通りで、私はぽかんとしてしまう。去って行った彼を見ると、女子からチョコやクッキーをもらっていた。ニコニコと笑って嬉しそうに受け取っている。

 ……あぁ、私のチョコはもういらないのだ。

 よかったと思うのに私の気分はどうにも晴れない。ただチョコが欲しいと言われただけで、用意した自分が妙に腹立たしかった。

 それから鶴丸さんに話しかけられることもなく授業は終わっていった。授業の内容は胸がざわついて、全く頭に入らなかった。それは授業が終わるたびに鶴丸さんが他のクラスの女子に呼び出されるからだろう。

 こんなにモテるのになんだ、この人は。どうして私なんかにチョコが欲しいなどと言ったのか。

 頭を抱えたくなる。

 彼の机の横にはバレンタインのチョコがたくさん入った紙袋。これだけあると義理で渡したとしても喜ばれないだろうことは安易に想像がつく。全部食べるのは大変だろう。

 何をやっているんだろう、私は。

 小さくため息を吐いて、部活に行く準備をする。またも女子に囲まれている鶴丸さんを横目に、教室を出てすたすたと歩いた。

 廊下も廊下で、女子が男子にチョコを渡したり、女子同士でチョコを交換し合っている姿がちらほらと見える。

 なんて憂鬱な日だろう。本命でもないのに、敗北を味わった気分だった。

「待ってくれ!」

 肩をずしりと重く掴まれ、振り返る。

 そこには白い雪のような頬をほんのりと朱色に染めた鶴丸さんがいた。さっきまで女子に囲まれていた筈の彼が私を呼び止めていることに驚いて、ついぼうっと彼の赤くなった顔をまじまじと見てしまう。

「……そ、の……帰りは一緒に帰らないか」

 彼にしては珍しい、つっかえた声。

「えっなんでですか?」

 思わず、そんな意地の悪い返答をしてしまっていた。

「なんでって、きみなぁ」

 彼の耳が異様に赤く色づいているような気がする。どうして分からないんだいと呟かれるが、分からないものは仕方ない。

「いつも一緒に帰る友人に彼女ができてな、それで一緒に帰る相手がいないんだ。とにかく、俺の部活が終わるまで教室で待っていてくれ。絶対だぞ!」
「あっ……え?」

 言うだけ言うと、鶴丸さんは逃げるように教室に帰ってしまった。
 何を言われたのか一瞬分からなくて、小さくなっていく鶴丸さんの背中を見つめる。彼の姿が完全に見えなくなって、私はようやく頭が動き始めた。

 ――正直、止めて欲しい。こういうことは本当に、止めて欲しい。

 沸騰した頭を冷やすために早歩きで部室へ向かう。

 頬も頭も熱くて、心臓は早鐘のように鳴ってうるさい。よりにもよって、そんな、まさかと何度も頭の中で呟いた。今まで頑張ってきた私の努力はなんだろう、と。

 思い浮かぶのは鶴丸さんの真っ赤になって必死な顔。

「こんなの、反則です……」

 言葉にして、また更に体中の体温が上がっていく。だっていつも余裕そうに話しかけるから。なんでもないことのように、私に声をかけるから。だから大丈夫だったのに。私も対したことではないと思えたのに。

 彼の素の顔を見てしまった。ただそれだけのことで、私は自分でも呆れるくらいあっさりと落ちってしまったのだ。


     ◇


 部活中、私は何も手に付かなかった。画用紙を前にぼうっとして友達に指摘され、けれど、またすぐに私の意識は明後日の方向に行ってしまう。絵は全く進まない。

 長いような短いような部活の時間も終わり、友達と別れて教室へ向かった。

 ……この日はバレンタイン。いつも帰る私の友人にも晴れて彼氏ができたのだ。

 体育会系の部活にいる鶴丸さんはまだいなくて、教室内はがらんとしていた。茜色の夕日が眩しく、教室内を照らしている。机の上に鞄を置いて、教室からグラウンドを見た。

 部活に参加する三年生がいないので、グラウンドにいる生徒は少ない。今は道具の片づけをしているようで、鶴丸さんがここにくるまでそんなに時間はかからないだろう。

 しかし、グラウンドにほとんど人がいなくなっても鶴丸さんはなかなか現れなかった。

 トイレにでも行こう、と一旦教室を出た、その帰り道。廊下の外を見ると、そこから見える別棟の教室に息を呑んだ。

 鶴丸さんと三年生の女子がそこにはいた。

 見なければいいのに、私は足を止めてその教室を見る。こんな覗き見のようなことしたくないのに、足は地面に縫い付けられたみたいに動かなかった。

 三年生の先輩は鶴丸さんの胸にチョコらしき箱を渡す。今日一日何度も見た光景なのに、息が止まる。彼らが二人きりでチョコを受け渡しているからなのか、私が鶴丸さんへの気持ちを自覚してしまったからなのか。

 胸の痛みは酷くなる一方だ。

 鶴丸さんはそのチョコを受け取ろうと、一歩近づいたその時――女子が鶴丸さんの胸に飛び込んだ。

「……っ」

 途端、私は怖くなって、鉛みたいに重たい足で駆け出した。行きつく先は鞄のある教室。

「ふ……うっ」

 目頭が熱くなって、呼吸がうまくできない。これは心臓が痛すぎるせいだろう。

 じん、と鼻の奥が痺れ、耐えても涙がほろりと零れてしまう。頬に涙の道筋ができてしまっては我慢していた涙も止まらない。こんな顔では外に出れない。

 鞄の中にあるタオルを取り出そうと、チャックを開けると鶴丸さんの次に見たくないものを目にしてしまった。
 四角形の真っ白なバレンタインチョコ。

「あはは……」

 こんなもの、もういらないのに。欲しいと言った本人はあんなにたくさんチョコをもらっている。残している必要なんてない。
 さすがに食べ物を捨てることはできなくて、包装用紙をビリビリと破り、チョコを口の中に入れた。

 歯でチョコを割るととろんとした柔らかいチョコが舌に絡まる。美味しいのに、どうしてかしょっぱい。
 二個目、三個目に手を伸ばしているとパタパタと廊下を走る音が聞こえてきた。それだけでその足音の正体が分かってしまう。けれど、もう隠れることもできない。

「悪い、遅くなった……!」

 息を切らせながら鶴丸さんは教室に入ってきた。

「う、うん」

 顔は見せられなくて、俯いたまま返事をした。けれど鶴丸さんがそれを見逃してくれる筈はなかった。

「なあ、怒ってるのかい?」

 私の行動を不審に思った彼は、私に近づき顔を覗き込んだ。ゆらゆらと揺れる蜜色の瞳と目が合う。私の酷い顔を見ると、目が見開かれた。

「きみ、な、泣いて」
「泣いてません。目にゴミが入って」

 我ながら苦しい、いい訳だった。なのに鶴丸さんは「大丈夫か?」と、私の目尻に溜まっている涙をそっと拭ってくれる。細く長い骨張った指を拒むことはできない。触れて欲しい、とさえ思ってしまうこの心が辛かった。

 これが”恋”なのか。

 最後のチョコを一つ残していることに気付いて、ハッとなり慌ててパクリと食べる。これで箱の中は空っぽだ。鞄の中にチョコが入っていた箱を乱雑にしまうと、鶴丸さんは眉を寄せた。

「そのチョコはどうしたんだい」
「自分用です」
「あ、あの、俺のは……」
「ありません、食べました」
「お、おいきみ、そういう意地悪は」
「チョコ、たくさんもらってるじゃないですか」

 口の中はやっぱり甘くてしょっぱくて、口内で溶けるチョコを上手く飲み込めない。

「いらないでしょう」

 女子からもらっていたたくさんのチョコ。その中には本命もたくさんあったわけで、私は、気持ちを込めて渡すなんてことさえできていない。自覚したこの恋を表に出したくなくて、必死になって喉をこくりこくりと動かした。

「いるに決まってるだろ……」

 両頬に手が伸びる。男の人らしく大きなその手は、私の俯いた顔を上げさせる。彼の瞳の蜜は熱がこもって溶けそうな色をしていた。その視線と一瞬だけ絡んだ後、ぐっと顔が近づいた。

「んっ……!?」

 柔らかい唇の感触に肩が震えた。すぐに離れようと一歩後ろに下がるけれど、彼は一歩前へ出る。逃がさないように腰に手が回り、私はあっという間に捕らわれた。ぎゅっと目を瞑り、唇を閉じているとその表面をちろり、と濡れたなにかに触れられた。

「ひゃ、め……むっ」

 驚いて僅かに開いたその唇にするりと温かいものが侵入する。未知の感覚にされるがままでいると、歯茎や歯裏を撫でられた。数秒そうしてようやくその正体を理解する。

「んっ、んん」

 鶴丸さんの胸を叩いて、抗議するけれど解放してくれそうにない。舌と舌がぬるりと絡み、羞恥でまた涙が出る。舌の裏まで擦られる頃には、私は下半身にほとんど力が入らなくなり、胸を叩く手はいつの間にか鶴丸の胸を掴んでしがみつくような格好になっていた。

「ん、はぁ……」

 低い吐息に、これでもう終わりかと思えば、じゅうっと音を立てて口内の唾液を吸われていく。

「ふぁ……う」

 唇が離れると、つうっと銀色の糸が垂れて居たたまれない気持ちになる。ちらりと鶴丸さんを見ると、申し訳なさそうに目を伏せていた。

「悪い、つい」

 するりと腕が解かれる。がっしりとした体が離れて、私はよろめきそうになる。

「そんなにチョコが欲しいとは思いませんでした。紙袋に入りきらないくらい貰ってるのに。さっきだって、三年生の先輩に抱きつかれていたじゃないですか」
「見られてたのか!? それは向こうが急にきたんだ! ちゃんと断ったさ。……なあ、本当に俺へのチョコはもうないのか」

 断ったと聞いて、心が少しだけ軽くなる。
 けれど、耳朶を打つ悲しげな声に善心がズキリと痛んだ。

「さっき食べたじゃないですか……」

 あの生々しいキスを思い出して、唇にまだ残っていた熱が疼く。

「あれだけか?」
「あ、あんなことしておいて!?」
「きみが食べるからだろう」
「食べてるからってわざわざ口の中、を……」

 私の羞恥はもう限界で声はか細くなっていく。だめだ、頭が切り替わらない。

「だいたい、おかしいです。いくら食い意地が張っているからって……は、うっ」

 鶴丸さんの手が私の方に伸び、頬を無遠慮につねった。みょーんとお餅のように伸びる頬。つねった彼は、すねたような口調で私に言う。

「何度も言うが、きみからのが欲しかったんだ」
「わはった、またはうはら」

 つねられたまま口を動かすと、間抜けな声が出てしまった。ははっと心底喜ぶ鶴丸さんの笑い声。

「そうか。それじゃあ待ってるぜ」

 頬に手が離れ、私はほんの少しひりひりして熱い頬に触れた。今日がバレンタインなので、帰りにチョコを買いに寄らなくてはバレンタインのコーナーもなくなっているだろう。

「じゃあ、私チョコ買いにお店寄りますね」
「……手作りは駄目か?」
「なっ」

 どうしてそういうことを言うのか。

「買った方が美味しいじゃないですか! 今日の鶴丸さん本当に変です」
「当たり前だろう、ずっと楽しみにしてたんだぞ。きみは鈍感すぎる」
「鈍感って」
「普通気づくだろ。キスまでされたら……」

 頭から切り離そうと必死に逃げていた言葉を鶴丸さんの口から言われて悲鳴が出てしまいそうだった。俯いて羞恥と戦っていると、大きな手が私の顎を掴んで上げた。目の前の蜜色の瞳はギラギラと輝いている。

「それとも、もう一度しないと分からないかい?」

 吐息交じりの声が私の唇にふっと熱を孕ませた。

「い、いいです……」

 至近距離で鶴丸さんの顔を見つめることに耐えられなくなり、目を瞑る。すると、今度はちゅっと触れるだけの口づけをされてしまう。

「ひぁっ」

 触れた場所がじんじんと痺れていく。
 していいなんて一言も言ってないのに、結局私は二度目のキスを許してしまった。

「これで分かっただろう。俺はきみのことが好きだ」

 鶴丸さんの顔はもう茹蛸みたいに真っ赤で、私も、湯気が出そうなほど顔が熱かった。

 ああ、もうこの人は……。

 降参です、という気持ちをこめて私は答える。

「分かりました。……私も、好きです」
「ああ、分かってくれてよか……ん!? ま、待ってくれ。さっき、何て言ったんだい」

 両肩を掴まれ、私は押し黙った。さらりと言ってしまえば流してもらえると思ったのに、そうはいかないらしい。

「もう一度言ってくれ」
「嫌です!」
「断る! ……ああもう、とにかく帰るぞ。可愛いすぎる。このままだとまたキスをしてしまいそうだ」

 手を掴まれ、教室を出る。手を繋いで帰るなんて他の生徒に見られたらどうしよう、と思い振りほどこうとするが、頭上から聞こえる「危なかった、キス以上のことまでするところだった……」という呟きに、身体が固まった。

 ……あのキス以上に何があるというのか。

 お店に寄るまで、私は放心状態だった。教室であった出来事が夢みたいで。本当は私の聞き間違いなのではないか、と何度も何度も考えてしまう。けれど、自分とは違う手の温もりに、これが現実なのだと思わざるを得なくて……。

 右を見ると、鶴丸さんの横顔がある。私の視線に気づくと、まだ赤みの抜けない顔で嬉しそうにはにかんだ。その表情に胸をときめかせていると、掴むように繋いでいた手を、指で絡ませ恋人繋ぎにしてしまう。ごつごつした凹凸のある指の骨に男女の違いを感じずにはいられない。中性的な顔立ちだというのに、私を見る目も、身体も、男の人で……参ってしまう。

 気持ちを込めたチョコを鶴丸さんに渡したら、彼はどんな顔をするだろう。無邪気に笑って喜ぶのか、それとも――私からチョコを奪った時のような獣のような表情をするのか。

 それは分からないけれど、ちゃんと手作りのチョコにしようと思う。

 やっぱり、初めての『好き』という言葉があんなにそっけないのはよくないから。

 赤い夕陽はもう沈んでいるけれど、私と鶴丸さんの頬は赤いままだった。