やっときみに好きだと言えた(4)

 赤色や黄色が混じった光が部屋の中に流れ込んでいた。真っ白だったノートにも陽の色が滲んでいる。並べた模範解答に溜息を零してノートを閉じた。すっかり温くなってしまったアイスティーを飲み干して、出かける用意をする。

 ノースリーブの白いワンピースに、黒いロングカーディガンを羽織った。化粧はできるだけ顔が目立たない程度に描いて家の鍵を閉める。

 行くお店は、安くてお酒がたくさん飲める店だと聞いている。大学デビューのつもりはなかったけれど、できるだけ人と話したりするようにしていたからか、よく飲み会に誘われるようになった。

 誰かと一緒に居ると、鶴丸のことを考えることもないし、勉強も集中すれば集中するほど、余計なことを考えなくてすむ。

 私と鶴丸は同じ大学にいるけれど、広い大学の敷地内では滅多に会うことがなかった。例え会ったとしても私も鶴丸もそれぞれ違う人と一緒に居る。その度に鶴丸を見ては、視線が合わないことにほっとしている最低な自分がいた。

 こんな風に、人を傷つけて私は生きていくのだろうか。告白してくれた鶴丸の気持ちを受け止めもせずに流すのか。

 でも、と言い訳をして自身の行動を肯定する。

 私は間違ってなどいない。

 前世で鶴丸は私を振った。その表情を視ることはできなかったけれど、申し訳なさそうな声音で彼は言ったのだ。あの時、確かに彼は私のことを好きではなかった。

 鶴丸が私を好きだと言うのだとしたら、一体何が原因か。私が告白を諦めた次の日、何が起こったのかを考えれば何となく察することができる。私は鶴丸を庇って勝手に死んだ。そこからどうやったら純粋な好意が生まれるのだろうか。

 だから私は、鶴丸を避けた。私が鶴丸と関わるのが苦しいというのもあるけれど、けれどやっぱり、避けることが鶴丸にとって一番いいことだと思ったからだ。

 もう止めよう。これはあくまで前世だ。今の私には本来関係のないことだ。

 そう考えると、すっと気持ちが落ち着いていく。今日取り組んだ課題が歴史修正主義者に関することだったからだろうか。前世のことばかり考えてしまった。しかし、これは私によくあることだ。固く閉じた筈の蓋が、気づいたら緩んでいることがある。そのまま動いてしまうと中に並々と注がれた真っ暗な液体が外に零れてしまうから、その度に蓋を閉めるのだ。きつく、きつく、もう二度と緩まないように願いながら重たい容器をずっと持っている。中身を捨てればいい? けれど、これが何の液体なのか分からない場合、どうすればいい。出してみたら人を殺せるほどに凶器的な液体なら、私はまた過ちを犯すことになるのだ。

 ――ああ、けれど外に出すことができないなら。

 私はいつかその得体の知れない液体を飲み干すしかないのかもしれない。

 でもそれはまだ先だ。今ではない。

 それはたぶん、鶴丸が普通の人間としての幸福を手に入れることができた時だと思う。

「お待たせ。待った?」

 待ち合わせていた駅で、友達と会う。彼女は私を見ると、人懐こい笑みを浮かべて「私もちょうど来た所だよ」とまるで彼氏みたいな台詞をさらりと言う。

「後もう一人、女の子いるんだけどね。お店で待ち合わせてるの。行こっか」
「うん。女の子ってこの前の、絵が上手な子だっけ」
「残念。違いまーす、その隣にいた彼氏にフラれた女の子の方でーす」
「……大丈夫なの?」

 何となく嫌な予感がして、必要もないのに声を潜めた。

「いやぁうん、大丈夫じゃない。私も逃げたいんだけどね、ほら、彼女頭いいし」
「うん?」
「実はこの前ですね、課題を手伝ってもらいまして」
「……ううん?」

 腕を強く掴まれる。

「本当に不本意ですが、合コンに参加することになりました」
「帰る」
「いーやー今夜は帰さないー」

 私の腕を抱きしめて、彼女は引っ張った。

「大学入ってから一番仲がいい子だと思っていたのに、こんな形で裏切られるなんて!」
「えっあっ、嬉しい! 相思相愛だね! そんな私の為に一緒に生け贄になろっ」
「私が男の人苦手って分かってるよね」
「うんうん、分かってる。実は私も苦手。苦手な女二人揃えば何とかなるよ」
「ならない! ならないから!」
「やだやだ一人にしないで!」
「もう私達は終わり!」
「……何やってるの、あんたら」

 パシャリ。スマホが私と友人二人を写す。

「遅いから迎えに来た」
「あ、すみません……」
「お見苦しい所をお見せしました……」

 彼氏にフラれた女の子が登場した所で、私達二人の悪あがきの茶番は終了した。




 合コン。合コンとは。何故、あなたは合コンに。私は友達に売られて。

 シックでオシャレな店内。明るすぎない照明。心地よく耳に入っていくジャズの曲。

 相手の男性三人は既に来ているみたいだ。私達の顔を見ると「あっ」という顔をしたから。

 男の人と一緒に食事するのは初めてではない。話はできるし、面白いとも思う。でも、合コンは違うと思う。目的が全然違うのだ。自分を『女として』あからさまに見られることに、抵抗を感じる。彼女だって、それは同類だった。だから私とよく行動を共に……

「ねえ、君この前のことは覚えてる? 今度は逃げたらだめだからね。で、下の名前も教えてよ」
「あっ、あの名乗るほどでもナイデス」
「こういうの、初めて?」
「ウン」
「じゃあ連絡先だけでも聞かせて」
「ピギィ……」

 じゅぅうううううううううううううう。

 じゅぅううううううううううううううううううううううガラガラガラガラ。

 思わずグラスの氷水をストローで勢いよく吸ってしまうほど馴染んでいる。一緒に来たもう一人の女の子も、二人を見て勢いよく水を吸っていた。

 それもそうだ。三人の中で断トツイケメンの男をもう既にほぼ落としている……。

 男の名前は長船光忠。目鼻がくっきりと整っており、右目は髪で隠れている。図体はそこそこに大きく、服の上からでも整った筋肉があることがよく分かる。藍色のTシャツに長め丈のパンツ。隙のないイケメンだった。

 友人から何かを乞うような視線を感じるが、この合コンに無理矢理連れて来たのは彼女である。次からはこれに懲りて、課題は自分の力で取り組んで欲しい。

「長船があんなにがっつくなんて、何かあったのか……」
「知り合いだったんですかね」
「だろうな」

 隣に座ってきた男の人は微かにタバコの臭いを漂わせながら、店員を呼ぶ。見た目は少しチャラそうな先輩だけど、テキパキと食べ物や飲み物を頼んでいく姿に感心した。真っ黒な髪に、鶴丸と同じ瞳の色のせいか、雰囲気も似ているような気がする。

「それできみも、合コンとかしたことなさそうだよな」
「や、やっぱり分かります? 知らずに連れて来られてしまって」

 ほっとして私は事情を話す。自分は男を漁りになど来ていないので、相手をしても全く意味がないことをアピールできる。

「じゃあ彼氏いるのか?」
「いないですよ。今はつくるつもりもないですし……」
「試しにテキトーに付き合ってみてもいいんじゃないか」
「そんな無責任なことできないです」
「うーん、付き合うのに責任はないと思うんだがなぁ。あ、チャラいって思っただろう」
「だって……」
「頭の中であーだこーだ考えたって、行動してみないと分からないことだってあるぜ? ほら、俺みたいなチャラい男ならテキトーに付き合えるんじゃないのか。気に入らなくなったら捨ててくれていいし」
「ええと……私のこと、好きじゃないですよね」
「ああ。だから無責任でいられるだろう」
「でも、好きじゃない人と付き合うって疲れませんか」
「いや全然? 可愛い子となら、楽しいし気持ちいいな」
「え……んッ?」
「まあそういうことだ。どうだ、今夜」
「お断りします」

 怖くなって、先輩からそっと離れるように横にずれる。

「まあまあ、そう警戒するな」

 快活に笑うと、私の肩に手を伸ばした。

「止めて下さい!」

 それなりにかっこいいのに、中身が残念すぎる。手を払おうと、先輩を見上げるとその後ろを通りすがる人と目が合った。

「――あ」
「どうした?」

 先輩が不思議そうに私の顔を見る。

 鶴丸がじっと、私を見ていた。目が合うとすぐに逸らされ、少し離れた席に座ってしまった。

「いえ、何でもないです」

 お酒で熱くなっていた頬が、急速に冷たくなっていく。いけないことをしている訳ではないのに、何か言い訳をしなければならない不安に駆られた。鶴丸とは、そういう関係でもないのに。むしろ、振ったのは私だ。付き合ってもいないのに、浮気現場を目撃されたかのようなショックが胸を刺す。

 それもそうだ。先ほど私を見た鶴丸の目は今まで見たこともないほど、冷たい目をしていたのだから。

「あ、グラス空いてるじゃないか。次は飲まないのか?」
「ええと、どれを頼もうか迷っていて」

 とはいえ、名前のないもやもやがあるからと先輩を冷たく突き放すことはできなかった。まだ始まったばかりの合コンから抜け出す勇気もない。

「うーん、ジュースとか果実酒とか好き?」
「好きです」
「俺、酒を選ぶのは得意なんだ。きみにすすめたい酒があるから、それでもいいか?」
「は、はい」

 先輩は機嫌良さそうに、メニュー表を見る。店員を呼ぶと、私の他にもグラスが空いている人のお酒も一緒に頼んでくれた。選ぶのが得意だと言っていた通り、実際に来たお酒は美味しかった。あまり冒険はしない私は、すすめられるまで飲むことはなかっただろう。

 すごくいい先輩なのに、私の気分は下がる一方だった。

 鶴丸はあれから一度も私の方を見ていない。一緒に来た友人達と楽しそうに談笑していた。私が居る席の前を通る時しっかりと目があったから、私がここにいることは知っている筈だ。それなのに、一度も見てくれないのはそういうこと。

 そういうこと?

 何かを期待してしまっている自分に気づいて苛立つ。

 ……私も、鶴丸みたいに消さないと。

「さっきから違うテーブルの方ばっかり見ているが、何かあるのか?」
「――先輩」

 一度、汚れてしまえばいっそ。

 こんな甘い考えも捨てられるんじゃないだろうか。

「もっと、お酒飲みたいです」

 頭も心も、どこにあるのか分からなくなるくらい、ぐちゃぐちゃに酔ってしまいたい。唇から零れる嘔吐物と一緒に重たい思い出を出したいのだ。そして肉欲の闇に落ちて、淡い期待さえ持てなくなるだろう。

「……ああ、いいぜ」
「度数が強くて美味しいのないですか」

 先輩はきょとんとした顔をすると、すぐに察してくれた。私にしか分からないように口元を歪めて「気持ちよくなれる酒があるんだ」と教えてくれる。

 運ばれてきたグラスの中身を飲み干す度に、先輩の眼光に鋭さが増していく。

「先輩、次は」
「待った。これ以上は駄目だ」
「どうしてですか。まだ平気ですよ」
「うーん、そうだな。なら、他の店でもいいかい? さすがにこの店で紹介できる酒が尽きた。もういい時間だし、抜けられるだろ」
「……それもそうですね」

 結局、合コンなのに私の友人と長船さんがずっとべったり二人でいる為、席を替わったりすることが出来なかった。そろそろ帰ることを伝えると、皆あっさりと解放してくれた。

 友人を残すのはどうかと思って、二人を見る。友人は長船さんの肩に寄りかかって眠っていたが、長船さんはまだ襲わないとのことなので、安心して家の住所を教えた。

 お店を出ると、熱帯の海みたいな風景が広がっている。ビルの窓から零れる光はまるで魚みたいにうようよとたくさんそこにあり、お店の看板はカラフルな色で人々を誘っていた。人の足音、息づかい、車のタイヤが擦れる音、エンジン音、まとまりのない音がミキサーにかけられて雑音になる。

「店は、個室でもいいか」

 先輩を見上げる。知っている人とどこか似ている雰囲気で、今の私と同じくらいに危うかった。

 ふと、少女漫画を思い出す。

 こういういけない道に入ろうとした時、主人公のヒーローが現れて助けてくれるお決まりのシーン。私の世界が少女漫画なら、お店を出たら「何をしているんだ」って怒りながら鶴丸が私を連れ去るのだと思う。けれど、これは都合のいい少女漫画でもないし、派手なラブストーリーでも何でもない。私は主人公という柄でもないし、鶴丸も私のヒーローではない。

 最初から、分かっていた。

 あんなに拒否されて、それでもしつこく迫るならストーカーの類いだ。鶴丸はそういう人ではないことを私が一番よく分かっている。彼はとても真っ白だ。触れただけで、幸せが約束されてしまいそうなほどに、白くて美しい神様。

 だから私は彼を拒むのだ。

「……はい」

 先輩の腕を掴む。不幸にすがりつく私を、先輩は笑う。

 私には、誰にも言っていない秘密があった。一週間先の未来を見ることができること。映像は断片で、見る時は突然訪れ、そして見える未来はいつも最悪の瞬間。

 しかしそれは前世の話で、今はそんな映像が見えたことはない。それでも、未来視の爪痕はしっかりと残っている。

 ぼんやりと考え事をしていると躓いて転び書けたが、私の身体は前にいた人にぶつかった。

「大丈夫か」
「はい」

 身体は無事だが、頭の方はあんまり無事ではない。突然、頭を揺らしてしまったせいで、くらりと目眩がした。

「行くぞ」

 強い力で腕を引かれる。今まで話してきた声よりも低かった。足がもつれそうになりながら、私は必死に着いて行く。

 何かあったのだろうか。先輩は苛々している様子だった。

「きみの家はどこだ」
「……ホテルでは駄目ですか」
「――は」

 家は、駄目だと思う。女性の一人暮らしで、その場限りの人に家を教えることは、どれほど酒に酔ってもさすがに抵抗がある。

「正気か、きみ」
「だからたくさん飲んだんじゃないですか」
「……分かった」

 観念したように先輩が言う。軽口は多かったけれど、根は優しいのかもしれない。女にだらしない人だと思っていたので、こんな所まで来て確認して来たのは意外だった。

 細く暗い道を曲がり、奥へと進む。広い道に出たと思えばそこは有名なホテル街だった。ネオンの色も当然、ピンク色が多い。私と先輩を気にもせずに目当ての女の子ばかりを見ている人や、私を値踏みする視線が幾つかあった。先輩は私を隠すように歩いてすぐに立ち止まる。

「……ここでいいか」

 ビジネスホテルみたいな味気ない外観のホテルを指さした。私は黙って頷いて、ホテルに入る。受付を済ませて、部屋に入ると普通のホテルと何も変わらない。ただ照明が少し、暗いだけだ。

「ええと、私したことがないんですけど、どうすればいいですか」

 まるで初めて職場に来た新人が言う様な事務的な言葉を発してしまった。

「あぁ……うん、そうだな」

 先輩は考える素振りを見せる。

「とりあえず、水でも飲んでくれ」

 いつから持っていたのか、ミネラルウォーターが入ったペットボトルを渡される。本当は酒を薄めたくないけれど、好意を無駄にする訳にも行かないので、少しだけ頂くことにした。

「風呂はどうする。先に入ってくれてもいい」
「……そうですね、じゃあ先に入ります」

 バスローブを渡されて、提案されたその言葉を素直に従う。

 お風呂場に近づいて、息が止まった。壁はガラスで、外から中の様子が丸見えだ。普通のホテルだと侮っていたら、こんなところで落とし穴があった。

 とはいえ、もともとそういうことをする為にホテルに来たので、今更お風呂場の中が丸見えだからと恥じらう必要もない。衣服を脱いで、シャワーを軽く浴びる。ちらりと、先輩の方を確認すると私から背を向けていた。広い背中はどこか小さく見えて、胸が痛くなる。

 少しの罪悪感を抱えながら部屋に戻ると、先輩は無言でお風呂に入ってしまった。

 残された私は、ひとまずドライヤーを探す。ベッドの隣の棚を調べているとそこからコンドームや、大人のおもちゃが出て来た。本当に、そういうホテルだ……。

 髪を乾かし終える頃に、先輩は出て来た。

「まだ寝てなかったのか」
「え、でも」
「今日はもう疲れただろう」
「大丈夫です」

 息が詰まりそうなほど緊迫した部屋の中、微かな吐息が聞こえた。

「きみはそこで寝る。俺はそこら辺で寝る。自分の身体を大切にしてくれ」

 投げるような彼の言葉に、途方に暮れる。だって、それではここまで痴態を見せた意味がない。

「……しないんですか」
「する訳ないだろ」
「じゃあ、どうしてあんなこと言ったんですか」

 誘ったのは先輩の方だ。それなのに、直前になってしないなんて。

「言いたかっただけだ」
「――分かりました」

 怒りが激しい波の様に全身に広がっていく。目も、喉も、胸も酷く熱かった。

「正直、誰でもいいんです。私を汚すなら誰でもいい! 私は出ます。お世話になりました」

 ダブルベッドから降りて、服を着替える為に先輩の横を通る。すると、ぐっと腕を引かれて身体が人形みたいにふわりと宙に浮く。落ちたのはベッドの上で、見上げるとそこにはお腹を空かせて気が立っている肉食動物の様な目をした先輩がいた。近くで見ると、本当に鶴丸と似ている。

「誰でもいいなら、本当に俺でもいいんだな?」

 掠れた声が耳朶を打つ。先輩は私の返事も待たずに首筋に顔を埋めて、お湯で湿った肌に吸い付いていく。それは全く未知の感覚で、恥ずかしいくらいに私の身体は反応を示した。

「んっ……あっ」

 反射的に腕が、先輩を抱きしめる。キスだけで、悶えるほどに恥ずかしかった。自身から進んで身を汚そうとする罪悪感と、くすぐったくも甘い愛撫で背徳的な気持ちになる。

 濡れた唇はゆっくりと首から上へと這って、唇に吸い付いていく。ちゅう、ちゅう、と何度も唇を吸われて、力が抜けていった。

 熱い息を交じり合わせ、何かの契約みたいにお互いの唾液を飲んだ。

 そうしてとうとう、私は先輩にバスローブを剥がされて、ブラのホックも簡単に外されてしまう。男の人に、身体を直に触られるのも初めてだった。それを今日、初めて会った男にしてもらうなんてどうかしている。それも、好きな人とよく似た男の人に。

 ただ、触れて、抱きしめて、たったそんなことで息が荒くなった。まだ入れてもいないのに、身体の奥がびくびくと震える。快楽なのか、恐怖なのか。どちらとも言えない身体の反応に戸惑う暇もなく、先輩は私に触れた。

 指が、私を探る。肉と肉の間をなぞり、零れ出る果汁で果肉を濡らした。小さな痛みと、じわりと染みこんでいく疼き。これが気持ちいいというものなのだろうか。訳も分からぬまま、受け入れていると少しずつ自分の肉の蕾が開いていくのが分かった。

 ぬっと指が入る。

「……ッ」

 唇を引き結んで、声を抑えた。

「もう今更、止めないからな」

 ずぷり、ずぷり、と容赦なく指は肉でできたポンプの中を大きく広げていく。

「――アッ」

 痛みは、当然あった。そして胸の内に広がっていく喪失感に暮れる暇もなく、指は流れに沿って中に入ったかと思えば、逆らうように出て行くの繰り返す。

 最初は異物感が耐えなかったのに、繰り返せば繰り返すほどに感じ方が変わっていく。

 そっと足を閉じると、先輩は私の足を両肩に乗せて顔を近づけた。

「やっ」

 魚が水の中で酸素を吐く時みたいに、ぽつりぽつりと私を唇で優しく食んでいく。最後には、舌を出して舐め始めた。汚いし、舐めたいなんて普通、思わないだろうに先輩はとても丁寧に、私の肉の花弁を舐めていった。それは犬が餌を食べ終え、餌があった皿を舐めている様を連想させる。

「解れて来たから、入れるぜ」

 先輩は抑揚のない声で宣言をすると、ベッドの傍にある棚に手を伸ばしてゴムを取った。じっとその様子を私は観察する。四角形の包みを破くと、丸い輪っかが見えた。バスローブをめくり、その輪っかを陰茎に通していく。

 その……あまりにも大きい陰茎に私は釘付けになった。

 入るのだろうか。いや、根元までは入らないだろう。十五センチの物差しよりも大きいそれは、最早肉の凶器だった。見た目は細身なのに、一体どうしてここだけ膨張してしまったのか。

 私があまりの大きさに固まっていても、先輩はどんどん事を進めていった。

 コンドームの他にも使うものがあるらしく、棒状の何かを取り出すとそこからねっとりとした液体を私に塗りつける。ぬるっと指が滑り、情けない声が漏れても先輩からは何も言わない。中までぐちゃぐちゃになるほど濡らし終え、膨張した肉の塊が迫り来る。

 ――ああ。

 鶴丸との思い出が走馬灯みたいに蘇って行く。これから死ぬんだってくらいの気持ちで、私は身体に力を入れた。これでもう、鶴丸に期待してしまう駄目な自分を殺せるのだ。

「……大丈夫か」

 乱れた髪を先輩が整えてくれる。私は額に汗をかいていた。

「平気です」
「そうか。なら、いい」

 指とは違う厚さの肉が、入っていく。付けられた液体のせいか、それは滑るように入っていった。もうこれ以上は入らないと思っても、それは更に奥を追求する。しかし人の身体は不思議なもので、陰茎の下にある玉が股下に当たるまで入ってしまった。ここまでくると、下腹部に自分の物とは異なる物があるのだとよく分かる。ある意味、お腹いっぱいだった。

「……全部、咥えられるんだな」

 眉を寄せて、先輩が言う。気持ちいいことだと聞かされてきたのに、している相手は苦しげなのが気になった。

「力は抜いておいた方がいい――と言っても、初めてのきみじゃあ、どういう意味か分からないか」

 こくりと頷く。すると、先輩は困った風に笑った。

「あ、あの先輩……私の好きな人に顔が似てるんです。だから、好きな様にして大丈夫です」
「きみ、好きな人がいたのか。気づかなかった」
「誰にも言えないので、気づきませんよ」
「言えない?」

 鶴丸によく似た先輩なら、話してもいいと思った。というより、私が話したかった。

「こんなこと言っても信じてもらえないかもしれないんですけど、私、前世の記憶があるんです。その時から好きだった人とまた会えたんですけど、私……酷い死に方をしてしまったから言えないんです」
「なあ、そいつの名前は何て言うんだ」
「絶対に、誰にも言わないでくれますか」
「ああ」

 私はずっと思っていた人の名前を言う。ただそれだけなのに、名前を呼んだだけで堰を切ったかのように涙が止めどなく溢れた。

「ごめんなさい、こんな話聞かせてしまって」
「いいんだ。なあ、それなら俺を鶴丸だと思って抱かれてみないか」
「そんなことできません」
「いいから。俺がそうして欲しいんだ」

 先輩は、本当に鶴丸みたいに優しかった。甘える訳にはいかないのに、弱り切っていた私は彼の好意に甘えてしまう。

「つ、鶴丸……」
「うん」
「鶴丸」
「何回呼んでくれてもいいからな」

 先輩は私を抱きしめると、細い腰を何度も私の身体に打ち付けた。

「あっ……んッ、ひゃあっンッつる、ま」

 ぐっと膨張した肉が私の身体に埋まり、深く柔らかい部分を刺激される度に広がる疼きは脳みそさえも溶かして、理性をめちゃくちゃに押し潰した。人間ではなく、ただの獣みたいになっていく自分が酷く恐ろしい。助けを求めるように彼の背を強く掴めば、刺激は強くなる一方だった。それでもなお、私は抱きしめた。助けを求めるべき相手を間違えている筈なのに、求められずにはいられない。

 本当だ。嫌なこと全部、忘れられる。前世も全部、気にならない。

「――好き」

 前世なんて忘れていれば、言えたであろう気持ちを口にする。

「つるま、る……好き。ずっと、大好き」
「……きみは本当に、馬鹿だなぁ」

 先輩は言葉とは裏腹に、声音は苦しいくらいに優しくて、泣きたくなってしまうくらいに切ない顔をしていた。

「なら、好きだって言えば良かったんだ。そうすれば、きみ」

 本当に、その通りだと思う。私は好きだと言えば良かったのだ。例えフラれても、言えば良かったと思う。告白された時さえ、好きだと言えなかった。でも、言えるはずがない。

「幸せになるのが怖いの。幸せになってまた失うことになったら、もう生きていられない」

 前世で嫌と言うほど見せられた最悪の瞬間。大切な人や物が苦しむ様を何度見てきただろう。どんなに嬉しいことがあっても、突然視えてしまった未来に絶望した。

 ならばいっそ、ずっと不幸でいる方がいい。

「それに私、前世で死ぬ間際、鶴丸に好きって言ってしまったの。だからそのせいで、責任を感じて私のこと好きだなんて言ってくれた。だから、もう充分。これ以上は何もいらない」
「なら、鶴丸はどうなるんだ。本当に好きなんじゃないのか」
「そんなことないよ。鶴丸はすごく優しいから……だからきっと、誰かが鶴丸を幸せにしてくれると思う」
「きみは信じられなかったんだな」
「私にそんな価値がないだけ」
「ははっ……」

 彼は渇いた笑い声を上げる。人のことなのに、まるで自分のことみたいにショックを受けていた。

「そうか。そうだったんだな」

 頬に、雫が落ちる。それが先輩のものだなんて、信じられなくて先輩を見た。


 ――本当に、鶴丸とよく似た顔。


「どうした、俺の顔に何か付いているのか」

 寸での所で出かかった言葉は、先輩の口にぱくりと食べられて、快楽の波が私を打ち付ける。もう、それからはよく分からない。ただ、何となく、胸にぽっかりと空いた穴は、あの肉棒でも塞ぐことができなかったことだけは覚えている。